2009年05月12日

憲法九条を切り損なってみよう・後編

憲法九条.jpg

 
 昨日の続き。憲法九条についての話です。
 
 
 昨日は改憲論について、納得いかないことを書いたので、
 今日はなぜ護憲論に僕がくみするかということを書こうと思いますが。


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 その前に、微妙に話を脱線させて。
 
 「九条守ろうよ」という意見に対して、
 よく言われる反論に対して、反論しておこうと思います。
 
 
 
 それは「もし自分の家族が殺されたら、お前はどうするんだ」というもの。
 
 
 
 「憲法九条を守って、他国から侵略されても平和が第一、
  こちらからは攻撃しない」というのであれば、
 お前の家族が殺されても文句は無いのだな、というような意見ですね。
 
 
 僕にいわせれば、「個人の問題と、法律の問題は、別」です。
 
 
 もし、自分の家族が誰かに殺されたら、どうするか。
 敵討ちしたいと思いますよ。
 
 日本で「敵討ち」は認められていません。
 僕が殺人犯に対して私刑を行えば、僕が犯罪者になります。
 
 じゃあ、僕が敵討ちを行いたいから、
 法律でも敵討ちを認めたいかといえば、それは違う。
 
 
 やはり殺人は殺人として、禁止されるべき。敵討ちなんか法律で認めない。
 でも、個人としては、敵討ちを行う。
 
 「法律はこうあるべき」というのと、
 「自分が法律を守る」というのは、別の話です。
 
 個人の感情と、公的な法律の話は、別々に考えるべきことじゃないでしょうか。
 
 消費税だって、個人的には0%がいいですけれど、
 公的に考えれば、20%でもやむを得ないと思いますよ。
 
 
 憲法九条も同じことです。
 
 
 他国が攻め込んできたらどうするんだというけれども、個人としてならば、
 そりゃ戦う(か、可能ならば逃げる)に決まっています。
 
 「法律はこうあるべき」というのと、「個人の行動」は、
 同じじゃなけりゃいけない、ということは、ありません。
 
 ですから「もし他国がせめてきたら、お前はどうするんだ」という問いは、
 法律の話に、個人の話を持ち込んでいるので、意味がないと思います。
 
 
 
 一応、個人としての意見を言うのであれば「ケース・バイ・ケース」です。
 
 その他国がどこかにもよりますし、そのときの日本がどういう政権かにも
 よりますし、どういう歴史の流れで攻め込まれたかにもよりますし、
 自分の年齢やら家族構成にも影響されるから、一概には言えませんね。
 
 
 
 さて。本題。
 
 
 
 前回、改憲の先には「軍事的自立は無い」という話を書きましたけれども。
 
 では「憲法九条(護憲)」の先には何があるのかということを、
 少し書いてみようと思います。
 
 
 前回書いたように、僕は、日本が軍事的独立を果たせるほどの
 軍事力(つまり核兵器)を持つことは、不可能だと思っています。
 
 もしそれが可能ならば、
 核兵器の保有というのは考慮に入れるべき選択肢だと思いますが、
 現実的には、日本の核保有は不可能だと思います。
 
 
 
 どう転んでも、日本が防衛力を手に入れることは、無い。
 (現代国家のパワーバランスにおいて、核のない軍隊は、防衛力ではない)
 
 
 
 だったら、下手に憲法改正をして、そこそこの(役に立たない)軍隊を
 持っているよりも、最初から「憲法九条」という大義名分を
 持っていたほうが、得策なんじゃないでしょうか。
 
 
 世界に対して、バカ正直な「聖人」の立場をとるんですよ。
 
 
 日本は、世界で唯一の被爆国です。
 そして、憲法で軍隊放棄を明記している国でもあります。
 
 言い方は悪いですが、他に適切な書き方もないから書きますけれど、
 そういう条件を「利点」として利用するのです。
 
 
 
 日本は、戦争をしません。
 
 軍隊を持ちません。核兵器も持ちません。
 
 世界の皆さん、核兵器を捨ててください。戦争を無くしましょう。
 
 
 
 そういう美辞麗句を並び立てられるほどの大義名分を、日本は持っています。
 伊達に核兵器で何十万人も殺戮されていません。
 
 アメリカが、こんな台詞をいえますか? 中国がいえますか?
 南の島の小国なら言えるでしょうが、言ったところで、意味がありません。
 
 
 こんな台詞を堂々と言える条件が整っている国は、日本しかないんです。
 
 
 ヒロシマ&ナガサキという、問答無用の大義名分が、日本にはあるのです。
 
 日本の軍事戦略として最も好ましいと思うのは、
 バカみたいな美辞麗句を並び立てて、世界の国々の中で、
 「聖人」の位置にいくことだと思います。
 
 
 
 日本を攻撃したら、世界(の民衆)を敵に回す。
 
 
 
 そう思わせるほどに、日本は、世界(の民衆)に対してアピールしていく。
 
 発展途上国に対する寄付も、ガンガン行う。難民支援も行う。
 戦争には、すべからく反対する。話し合いで解決しようと主張する。
 核兵器を持つ国は、アメリカだろうが中国だろうが、公式に非難する。
 
 そして、世界(の民衆)の大半に、
 「日本は素晴らしい国」という印象を与える。世界の「人気国」になる。
 
 バカ正直に平和を追求する、聖人のような国を目指すんです。
 
 
 
 日本は、どうせ戦っても負けるんですよ。
 アメリカや中国と戦えるような軍事力を、持つことはできないんです。
 
 核兵器を持たない時点で、同じ土俵で勝負することは、できないんです。
 
 だったら、被爆国であり、憲法九条があるという「利点」を生かして、
 世界の「人気国(聖人)」を目指したほうが、
 自衛に繋がるんじゃないでしょうか。
 
 「日本を攻撃したら、世界からの反感をかう」という位置につくよう
 外交努力をしていくことが、最も国益に繋がるのではないでしょうか。
 
 戦ったら負けるんだから、「戦いにくい国」になるよう、努力するんです。
 
 世界の「国」に好かれるのではなく、「民衆」に好かれるような政策が、
 最終的には自衛に繋がると思うのです。
 
 国民だって、そういう国だったら誇りを持てますよ。
 
 
 
 国力というのは、「経済力」と「軍事力」です。「富国強兵」ですね。
 
 
 
 数十年後、このどちらにおいても、
 日本は一流国ではありえないと思います。
 
 
 軍事力は言うに及ばず。
 
 経済力も、中国やインドには絶対に抜かれるでしょうし、
 世界10位にでも入っていれば、良いほうじゃないでしょうか。
 
 
 そんな日本の立ち位置として、将来的に目指すべきは、どこか。
 
 
 僕は「聖人」だと思うんですよ。僧侶。戦争を放棄した、僧侶。
 
 世界の民衆から尊敬を集める、精神面での世界的リーダー。
 
 軍事力も経済力も一流ではないけれども、常に平和を追求している、
 世界のどの国からも、一目おかれているような国。
 
 
 すっげー美味しいポジションです (゜▽ ゜)
 
 
 こういう位置を狙えるのは、日本のほかには無いと思います。
 
 
 
 一度は白人帝国主義を打ち払うような活躍を見せ、
 世界中の有色人種に希望を抱かせた国。
 
 世界ではじめて、国連(国際連盟)に人種平等案を提出した国。
 
 世界で最も歴史ある王家をいだく、高度な文化を築き上げた国。
 
 経済的に超発展しているのに、豊かな自然環境を残している国。
 
 国民は礼儀正しく、真面目で、よく働き、才能にも溢れている。
 
 そして世界ではじめて核兵器攻撃を受け、何十万もの市民が虐殺された国。
 
 
 
 「聖人」の位置に座るべき条件は、
 世界中のどの国よりも、日本に備わっていると思います。
 
 (ブータンなんかも良いんだけれど、小国すぎるから、無視されて終わり。
  人口1億、経済世界2位の日本だからこそ、軍隊放棄のインパクトがある)
 
 
 
 そこで絶対に必要なのが「憲法九条」です。
 
 戦争放棄、軍隊放棄を明確にうたった、憲法九条が必要なんです。
 これを捨ててしまっては、日本は「ただの二流国」になってしまいます。
 
 このバカみたいな法律を、バカみたいに守り続けることが、
 日本の国益に繋がる最良の道なのではないでしょうか。
 
 日本を「一流国」にとどめておける浮き輪が、憲法九条です。
 
 憲法九条を守り続け、世界から尊敬される国という
 「美味しいポジション」を目指すことこそが、結果的には、
 最も「自衛」という目的を果たすのではないかと、僕は思います。
 
 
 
 以上、高知の山奥の農家もどきが考える、憲法九条についての私見でした。
 
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posted by 加藤のどか at 12:00| 高知 | いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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