2008年12月31日

お猿さん大ピンチの巻

 昨日からの続き。
 
 そんなこんなで、「欲望(の本能)」がありながらも、その解決方法である
 「行動様式(の本能)」を失っちゃった、我々の超ご先祖様は、
 人類史上最初にして最大のピンチに、おちいっちゃったワケです。
 
 
 昨日のメルマガでは「欲望(の本能)」は壊れずに、
 保持されたままみたいな書き方をしましたけれど。
 
 今、考えなおしてみたら。
 
 「欲望(の本能)」も、リミッターが外れて、
 ずいぶんと壊れてしまったでしょうね。
 
 時期的に、最初に「行動様式(の本能)」が崩壊したのか、
 「欲望(の本能)」が崩壊したのか、同時なのかは知りませんが。
 
 結果的には、両方とも崩れてしまったでしょうね。
 
 
 
 「欲望(の本能)」に関して言えば、
 その壊れ方は「失われる」ではなく「リミッターが外れる」
 という感じの、壊れ方をしたんです。
 
 DNAだか神様だか何だかがプログラミングしている「本能」というヤツは
 「アクセル」「ブレーキ」「道順(ハンドルさばき)」の3つから
 成り立っていると思います。
 
 
 
 「アクセル」は、そのまんま。
 おなかがすいたら、何かを食べたいという「欲望」のアクセル。
 適齢期の異性と交尾をしたいという「欲望」のアクセル。
 
 行動の原動力となるもの。それが「欲望のアクセル」です。
 
 
 
 「道順」は、行動様式の本能です。
 
 何を食べるべきかと示してくれる本能。
 毒と食べ物を見分けてくれる本能。
 子作りができる相手を見分けてくれる本能。
 (動物が、別種の動物と交尾することは、まずありえない)
 (ただし、動物園で飼われるなどして、狂ってしまった動物は例外)
 
 
 
 ここまでは、昨日書いたことの繰り返しですが。
 
 
 
 もう一つ、ブレーキとしての本能、
 つまり「欲望に対するブレーキ」も、あるんですね。
 
 欲望とは、アクセル一辺倒ではなく、ブレーキもあって、
 はじめて「欲望(適切な行動への動機・原動力)」としての
 役割を果たすのです。
 
 メスの取り合いのため、オス同士が喧嘩しても、
 動物ならば「ある一定以上は相手を傷つけない」という規定があります。
 
 これは、動物たちが会議をして決めたわけではなく。
 
 「これ以上、傷つけてはいけない」という本能があるんです。
 これは、欲望の本能の「ブレーキ」の部分です。
 
 
 
 ライオンが、いくら腹が減っているからといって、
 食べきれないほど、何百頭のインパラを狩ることは、ありません。
 
 それも、「欲望のブレーキ」が働いている例ですね。
 「もう、このへんでいいっしょ」的な感覚になるんです。たぶん。
 
 
 
 昨日は「欲望」は保持されたまま「行動様式」が壊れたと書きましたが。
 (あたかも「欲望の本能」は壊れていないかのように)
 
 
 訂正します。
 
 
 「欲望のアクセル」は保持されたまま、「欲望のブレーキ」は壊れた。
 
 まぁ、「欲望のブレーキ」というのは、
 「どこまでいったらブレーキをかける」という「行動」のことですから、
 それも「行動様式が壊れた」に含めることも、できるかもしれませんが。
 
 「ブレーキ」と「行動様式」は別種のものとして扱いましょう。
 そのほうが、今後の話がしやすそうな感じがします。
 
 
 
 ここで「欲望のアクセルだけが、なぜ壊れなかったのか」という
 疑問も、浮かんでくるかもしれませんが。
 
 壊れたと思います。
 そういう「人類(になりきれなかった猿)」も、いたはずです。
 
 でも、「欲望のアクセル」が壊れちゃったら、必ず死にます。
 
 たとえば「性欲(のアクセル)」が壊れたら、子孫繁栄は不可能です。
 
 壊れたのが「ブレーキ」や「行動様式」だけだったら、
 子孫繁栄のしようもあるんです。
 「先天的」には、ブレーキや行動規範が分からなくても、
 「後天的」に、会得することもできるんです。(詳しくは後述します)
 
 ただ、アクセルが壊れたら、生存(子孫繁栄)は不可能。
 
 だから、「欲望のアクセルは壊れなかった」というよりも。
 
 「欲望のアクセルが壊れた猿もいたけれど、滅びた」
 というほうが、正しいと思います。
 
 
 
 こういう人類の、進化だか退化だか知りませんが、
 ともかく「変化」が起きたきっかけというのは、何だったのか。
 
 一般的に「人類誕生のきっかけ」とされている、
 「今まで猿が住んでいた森が、環境変化によって無くなり、
  猿(人類の祖先)は平原に強制的に放り出された」
 というような事件が、きっかけになっているのかもしれません。
 
 気候の大変動があり、植生が急激に変化した結果、
 「(変更不可能な、ある一定の)行動様式の本能」を有したままでは
 生き延びられないと悟った、ある一匹の猿のDNAが変化し。
 
 「行動様式(の本能)」をかなぐり捨てて、
 「どんな環境変化にも対応できる」種族を目指して、
 進化(=変化=退化)したのかもしれません。
 
 それとも、森から放り出されたことにより、
 最初に「二足歩行」という身体的な変化があり、
 その結果、脳味噌の増大が起こり、脳味噌が増大する過程で
 何か不具合が起こり、本能(の一部)を失ってしまったのか。
 
 
 
 ハード(身体的)の変化が先か、
 ソフト(本能プログラミング)の変化が先かは、分かりませんが。
 
 また、キッカケが何だったかは、分かりませんし、永遠の謎でしょうが。
 
 
 
 ともかく結果的に、人類は「欲望のアクセル」のみを有したまま、
 「欲望のブレーキ」と「行動様式(の本能)」を失ってしまったんです。
 
 ベーコンさんが言うように。
 
 ある意味、人間ってのは「白紙(タブラ・ラサ)」なんです。
 
 ほかの動物には、本能っていう色々なキマリゴトがあって
 「白紙」とは、ほど遠いものになっているんでしょうが。
 
 人間は、キマリゴトが無い、白紙状態なんです。
 
 ただ、「欲望のアクセル」だけは有していますから、
 僕は、完璧な「白紙状態」ではないと思っていますが。
 
 本能の中の、「欲望のブレーキ」と「行動様式」という部分が壊れてしまった
 結果、「どんな行動でも取り得る」生物が生まれたという意味合いにおいて。
 
 「白紙」なんですよ。
 
 ま、タラブラサってのは、そーゆーことじゃないでしょうか。(僕の理解では)
 
 
 
 
 猿がいろいろ変化を起こす段階で、
 人類になり得なかった、「人類失敗作の猿」も、たくさんいたはず。
 
 
 先ほど書いたように、アクセルが壊れてしまい、
 賢者モード(性欲無し)から脱出できないまま
 死んでいった猿もいたでしょうし。
 
 あまりに本能が壊れすぎて、座り小便してバカになって、西へ飛んで
 いっちゃった猿もいたでしょうし。(古今亭志ん生「火焔太鼓」より)
 
 
 環境変化というキッカケだったのか、
 二足歩行という身体的変化の結果だったのかは、分かりませんが。
 
 ともかく、猿の脳味噌というのは、いろんなブッコワレ方をした。
 
 そして、ほとんどの「ブッコワレタ猿」が滅びていく中。
 
 ある猿たちは、結果的に「いいかんじの壊れ方」をした。
 
 「アクセルは壊れてないけれど、ブレーキと行動様式の大部分が壊れた」
 という猿が、いたんです。
 
 
 
 ちょっと、話それますけれど。
 
 
 
 ここまで、ブレーキや行動様式が100%ぶっこわれたみたいな
 書き方をしていますけれど、そんなこともありません。
 
 赤ん坊は、誰に教えられずとも、乳首の吸い方を知っていますし、
 自分で探し当てることも出来ます。
 
 それは、立派な「行動様式」ですね。
 
 そういうように、壊れていない「行動様式」も、人間にはあります。
 
 「赤ちゃんは、誰に教えられたわけでもないのに、
  いろいろ知っているんだよー」なんて、おばあちゃんが言うところの
 赤ちゃんの行動というのは、人類に残された数少ない「行動様式」です。
 
 
 同様に、ブレーキにしても、大方の人間は、
 生命体や、同種の人間を殺したりすることに「本能的」な嫌悪感を
 感じたりすると思います。それは、「欲望のブレーキ」ですね。
 
 「いや、それは人としてやっちゃあかんよ」と、
 怖い顔したオニイサンもコメントしちゃうような事態。
 それらは、人類に残された数少ない「欲望のブレーキ」かもしれません。
 
 
 ま、「行動様式」も「欲望のブレーキ」も、完全に壊れたという
 ことではなく、「ほとんど壊れた」ということです。
 
 
 
 話を元に戻して。
 
 
 
 「アクセルは壊れてないけれど、ブレーキと行動様式は大部分壊れた」
 猿あらため人間未満の、超ご先祖様たち。
 
 彼らは、本能に頼ることはできません。本能は壊れたんですから。
 
 でも「何かしなくちゃいけない」という本能(アクセル)は残っている。
 
 モノを食べるべきだし、子作りをするべきだし。
 でも、やり方がわからない。
 
 
 
 ご先祖様は、試行錯誤したことでしょう。
 
 
 
 そのへんの、木の実から、虫から、草から、口に入れてみる。
 
 本能がブッコワレタご先祖様は、何が「食べ物」で何が「毒」か、
 「本能的」に見分ける力は、ありません。
 
 「迷い」もするでしょう。
 
 これは食べていいものなのか、いけないものなのか。
 
 「考え」もするでしょう。
 
 この木の実は、おいしい木の実に見えるけれど、本当だろうか。
 
 
 
 自分と似たような姿かたちの、「本能」を持ったままの「猿」の行動を、
 真似したかもしれません。
 
 僕とソックリのあいつは(本能的に分かっていて)この木の実を食べている。
 あいつが食べているんだから、これは大丈夫だろう。
 
 そう「考えて」木の実を口にしたかもしれません。
 
 
 
 なんか、ムラムラするんだけど。この気持ち、どうしたらいいんだろう。
 
 他の猿を見ると、なんか、若いメスといちゃついている。
 アレをやれば、このムラムラも解消できるんだろうか?
 
 そう「考えて」子作りに励んだかもしれません。
 
 
 
 周りの猿の真似をしたり。試行錯誤をしたり。
 
 その過程でも、数多くの「人類になりきれなかった猿」が
 死んでいったはずです。(もしくは、子孫をつくれなかった)
 
 「ちょうどイイ感じのブッコワレ具合」をした猿の中で、
 いろんな偶然が重なって、うまいこと食べたり飲んだり、
 子供をつくったりという「方法(行動様式)」を学べた猿だけが。
 
 
 生き延びることが出来ました。
 
 
 猿、いや、人類(ご先祖様)は、子供たちに、
 食べ物の食べ方を「教育」します。
 
 子供の作り方を「教育」します。
 
 
 
 子供たちも、親と同じように「(いい感じに)ブッコワレタ猿」ですから、
 教えられずに、いきなりやることは、出来ません。
 
 でも、教えられたら、出来ます。
 
 ものを食べ、成長し、子供をつくることが出来ます。
 
 
 
 親から教育された「人類」は、自分の「代」でも試行錯誤を重ね、
 「食べられるもの」は増えていき、より、生き延びる可能性は高くなる。
 
 ほとんどの「ブッコワレタ猿(狂った猿)」は、
 そのあまりの「ブッコワレ具合」によって、自ら滅び。
 
 「いい感じのブッコワレ具合」をした猿の大半も、
 本能の行動様式またはブレーキに代わるもの(行動)を見つけられずに、
 滅びていったことでしょう。
 
 
 ほんの一握りの猿だけが、本能がブッコワレタにもかかわらず、
 本能の代替物となり得るような「行動様式(と、ブレーキ)」を
 「人工的」に作り上げ、生き延びることができたんです。
 
 
 
 「本能に代わる、人工的な代替物」のことを、
 我々は「文化」と呼んでいます。
 
 (続く)

 
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posted by 加藤のどか at 15:07| 高知 ☀| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

人間の本能

 年末年始にかけて、リアルタイムで読んでいるであろう読者さんが
 少ないのをいいことに、今日から数日かけて、壮大な話をしちゃいます。
 
 僕は、メルマガで、いろんな事象について
 「こう思う」「ああ思う」だの、テキトーに書きなぐっていますが。
 
 そのベースには、一つの考えがあるんですね。
 
 「人間は、こう生きるべきだろう」みたいな、考え方です。
 
 いままで一度か二度、こういう
 「ベースの部分(哲学とか思想とかいってもいいけど)」について、
 メルマガで書いたこともあるかと思いますが。
 
 年末年始の、多くのメルマガも休んでいる、この機会に、
 一つ、現状で考えられる限りのことを、まとめておくのも、
 いいかなぁなんて思いまして。
 
 ひとつ、思うがままに書いてみようと思います。
 
 
 一言で言えば。
 
 「人類文化はどうあるべきか」
 
 みたいな、壮大な話になっちゃうんですが。ハイ。
 
 
 あと一応、断っておきますが。
 
 「田舎暮らし」や「農業」とは、まったくとは言わないまでも、
 ほっとんど関係ない話ですから。
 
 あんま興味がない人は、今日から数日分のメルマガは
 「delete」で削除削除!してもらって、おおいに結構ですので。(゜▽ ゜)
 
 では、戯言をはじめましょうかね。
 
 
 
 
 
 時は、今から100万年とか、300万年とか、
 もしかしたら数十万年前くらいで済むのかもしれないけれど。
 
 ともかく、すっげー昔。
 場所は、アフリカの、とある大地。
 
 「猿」から「人間」が生まれた、その瞬間にまで、さかのぼります。
 
 
 
 動物と人間の、最も大きな違い。それは何でしょうか?
 
 
 
 人間だけが笑い、人間だけが悲しみを知り、人間だけに理性がある。
 
 
 
 まぁ、いろんな違いはあるでしょうが。
 
 根本にある、一番大きな違い。
 
 それは「人間には本能が無い」ということです。
 
 
 
 本能が無い、なんていうと。
 
 いや、食欲も性欲も睡眠欲も、人間にはあるだろう、
 あれは本能じゃねぇのかよ、というハナシになると思いますが。
 
 ここでの本能とは、そういう意味の本能ではなく。
 
 「行動様式」のことです。
 
 
 
 「本能」には、2種類の本能があるんです。
 
 それは「欲望(衝動・リビドー・なんかもやもやする気持ち)」の本能と。
 「行動様式(もやもやする気持ちの解決方法)」の本能と。
 
 2種類があるんです。
 
 本来だったら、この2種類は、別の語句であらわされるべきだと
 思うのですが、どっちもあわせて(というか、ごちゃごちゃにされて)
 「本能」と呼ばれているのが、現状ですね。
 
 ここでは、2種類の本能を「欲望」と「行動様式」と
 書き表すことにします。
 
 
 
 「欲望」と「行動様式」は、どう違うのか。
 
 
 
 「食欲」という本能を例に挙げれば。
 
 「おなかがすいた、何か口に入れたい、食べたい」という「欲望」があり。
 その後に「この米を食べる、パンを食べる、肉を食べる」という
 「行動様式」があるわけです。
 
 
 「性欲」という本能を例に挙げれば。
 
 「むらむらする気持ちがある」という「欲望」があり。
 その後に「適齢期の異性と一緒にいたい」という「行動様式」がある。
 
 
 
 さて。
 
 
 
 本来、本能というのは「欲望」と「行動様式」が、
 セットになっているものです。
 
 この「セット」が完璧な生物というのは、
 一般的に「下等生物」であると言われている生物。
 
 下等な(単純な)生命であればあるほど、
 この「本能セット」は完璧に働いているのです。
 「欲望」と「行動様式」の間に、齟齬が無いんですね。
 
 
 
 典型的な「本能が完璧」な生物の例として、「昆虫」があります。
 
 彼らの本能は、ほぼ完璧です。
 
 蜘蛛は(昆虫じゃないけどね)、産まれたときから、
 誰に教わることもなく、巣の張り方を知っています。
 
 どこに巣を張れば、獲物がかかるか。
 
 獲物がかかったら、どうやって食べるのか。
 
 すべて、完璧に知っています。
 
 蜘蛛には「何かを食べたい」という本能の「欲望」があり、
 その「欲望」を解決する「行動様式」として
 「巣を張る・獲物を待つ・獲物を食べる」という本能があるのです。
 
 「欲望」を解決するための「行動様式」は、ただ一つ。
 そこに「迷い」「蜘蛛自身の意志による選択」は、ありません。
 
 蜘蛛が「今日はアンニュイな気分だから、三角形の巣を張ろう」
 なんていう選択は、しないんです。というか、出来ないんです。
 
 本能で規定された「行動様式」に従う以外の行動を、
 蜘蛛は取ることができないんです。
 
 蜘蛛において、「欲望」と「行動様式」という二つの本能は、
 完全なセットとなって働いているのです。
 
 
 
 マイマイカブリが食べるのは、カタツムリだけです。
 
 ダーウィンが観察したフィンチは、特定の木の実しか食べず。
 
 シロナガスクジラは、オキアミの群れのみで食欲を満たします。
 
 
 
 多くの動物にとって、本能(食欲)の「欲望」と、
 何を食べるべきかという「行動様式」はセットになっており、
 その「行動様式」で定められた食物以外を食べることは、ありません。
 
 もしかしたら、栄養的には、マイマイカブリは、
 カタツムリ以外のものを食べても、生きられるのかもしれません。
 
 ナメクジを食べたって、カブトムシ用ゼリーを食べたって、
 トンカツ定食を食べたって、生きられるのかもしれません。
 
 シロナガスクジラだって、カツオくらいなら食べられるかもしれません。
 
 
 
 でも、食べない。
 
 
 
 「行動様式」で定められた食物以外を
 食べても、彼らは生きられるのかもしれないけれども。
 
 本能の規定があるから、食べないんです。
 
 
 
 それが「行動様式」の本能なんです。
 
 
 
 さて。この「行動様式」の本能ですが。
 
 人類に近づけば、近づくほど。
 一般的には「上等」な動物になれば、なるほど。
 
 壊れてきます。「行動様式」の本能が、なくなってきます。
 
 
 
 そして「最も上等な動物」であるところの人間は、
 「行動様式」の本能が、ほぼ完全に、失われてしまっています。
 
 「欲望」の本能は、残っているんですよ。
 
 「食欲」にすれば、「おなかがすいた、何かを食べたい」という
 「欲望(の本能)」は、残っている。
 
 でも「何を食べるべきか」という「行動様式(の本能)」は、無い。
 
 (もし、何を食べるべきか、何を食べてはいけないか、本能的に
  分かっているのであれば、赤ん坊がタバコを食べたりはしないんです。
  毒物や、物品を、間違って食べてしまうのは、人間の赤ん坊くらいです)
 
 人間は、何かを食べたいけれど、何を食べていいか、分からない。
 もやもやした気持ち(性欲)はあるけれど、どう解消すればいいか分からない。
 
 
 そういう生き物なんですね。
 
 
 人間と動物(猿)の、最も大きな違いは、ここなんです。
 
 動物は、行動様式の本能を有している。
 人間は、行動様式の本能を有していない。
 
 これが、最大の違いです。(欲望の本能は、どちらも有しています)
 
 
 
 ちょっと話を横道に逸らせますけれど。
 
 
 
 この「行動様式の本能の有無」は、人間と猿の間で、
 ハッキリと線引きできるものなのか。
 
 人間と遺伝子が99%以上同じのチンパンジーは
 「行動様式の本能」を有しているが、人間は有していないのか。
 
 と、いう疑問があるかと思いますが。
 
 猿という動物を見ている限り、完璧な行動様式(本能)を
 有しているとは、思えません。
 
 
 
 たとえば、賢いチンパンジーは、「ボタンを押す」という「行動様式」
 によって、自動販売機から出てきたバナナを食べることができます。
 
 これは、教育によって、行動様式を変えられるということ。
 きちんと「行動様式(本能)」が固まっていないからこそ、
 「教育」できるんです。
 
 
 
 相手が、完璧な(不変の)「行動様式」を有している
 マイマイカブリなら、こうはいきません。
 
 いくらマイマイカブリに根気よく教えたって、
 マイマイカブリが複雑な(新しい)行動様式を覚えて、
 そのとおりに行動するなんてことは、無いんです。
 
 ボタンを押したらカタツムリが出てくる自動販売機をつくっても、
 マイマイカブリがボタンを押すことは、できないんです。
 (実際に実験をやったわけじゃないけれど。たぶんしないでしょう)
 
 猿という動物、というか、一般的に「賢い」と言われている動物ほど、
 「行動様式」が可変なんですよね。
 
 可変ということは、本能の規定(縛り)が弱いということです。
 
 「欲望」の本能は残ったままで、「行動様式」の本能を変えられる。
 それが「賢い=教育できる」ということでも、あるのです。
 
 
 
 実際の世界では、この「行動様式」を変えられるという特性は、
 「環境の変化に対応できる能力」ということになります。
 
 異常気象が起こり、それまでの「行動様式」では
 うまく生存できなくなった場合。(対象のエサがいなくなったとか)
 
 そういうときに「行動様式」を変えられる動物は、
 生き延びることができます。
 
 
 
 では、行動様式を変えられない、昆虫のような生物は、
 異常気象のたびに絶滅するかというと。
 
 そんなことも、ありません。
 
 
 
 ここで、下等な生物(行動様式を変えられない生物)は、
 「種族」自体を変えてしまいます。「進化」というヤツですね。
 
 昆虫なんて、世界に何千万種類と言われるほど、多様な種類がいます。
 
 ちょっと環境が違ってくるだけで、
 行動様式の本能プログラム自体を、変えてしまう。
 
 違う種族になってしまうんです。
 
 昆虫の場合は、「山を一つ越えたら、違う種類になっている」
 というほどに、多種多様な種族になってしまいます。
 (当然、違う種族同士では、交尾などは出来ません)
 
 これは「山一つ越えた」という環境の変化に対して、
 「行動様式」を変えるのではなく「種族」を変えた結果です。
 
 環境の変化に対して、「上等」な生物であれば、自らの行動様式を変え。
 「下等」な生物であれば、自らの種族ごと変えてしまう。別種になる。
 
 そういう違いがあると思います。
 
 
 余談ですが、たまに、どんな環境にも対応しやすい、
 ほぼ完璧な「行動様式」をつくってしまう生物もいます。
 
 そういう生物は、行動様式を変える(教育によって進化する)必要もなければ、
 自らを別種の種族に改造することも、ありません。
 
 何億年も、そのままの姿で生き続けられる「行動様式」を、
 うまいこと(偶然にしろ)作っちゃった生物が、たまにいるんです。
 
 シーラカンス・カブトガニ・ゴキブリ・昔トンボなどの
 「生きる化石」といわれる生物たちが、それです。
 
 
 
 
 話をもとに戻して。「人間」について。
 
 
 
 
 結論から言えば、人間には「行動様式」がまったくありません。
 
 「行動様式」が少ない、緩い、というレベルではありません。
 
 
 「無い」のです。
 
 
 猿であれば、「基本的な行動様式」は残っています。
 
 基本的な行動様式はあるけれど、環境の変化(しつこい教育など)によって
 その行動様式を変えられる。でも「基本的な行動様式」は、存在している。
 
 だけど、人間には、行動様式がまったく無いんです。(と、僕は思う)
 
 「欲望」の本能を残したまま「行動様式」の本能を、
 なんらかの理由で、失ってしまった動物が、人間なんです。
 
 
 これは、大変なことです。
 
 
 「何かを食べたい」けれど「何を食べたらいいか、わからない」。
 
 「もやもやした気持ちがある(性欲)」けれど
 「どうやって解消したらいいか、わからない」。
 
 
 このままでは、自己保存もできなければ、子孫繁栄もできない。
 
 
 人間は、猿から人間となった瞬間に、
 人類史上最大のピンチに陥っているんです。
 
 この「欲望」を解消するための「行動様式」を、
 何とかして見つけないといけない。
 
 
 そういうピンチにおちいった「人間」が。
 
 
 100万年だか、300万年だか、数十万年前だか知りませんが。
 昔々のアフリカにいたのです。それが、最初の人類です。
 
 (続く)


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ラベル:岸田秀
posted by 加藤のどか at 15:05| 高知 ☀| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

宝くじ

 ねーんまつジャンボ♪ たからぁ〜くじ!
 
 あのCMを見るたびに、思うんですよね。
 
 
 
 いいなぁ、と。
 
 羨ましいなぁ、と。
 
 
 
 宝くじ「売りたい」なぁ。と。(゜△ ゜)
 
 
 
 宝くじの還元率というのは、ほぼすべてのギャンブルの中で、最低クラス。
 
 約45%しか、ないんですよね。
 
 これが、どういうこと意味するかというと。
 
 
 
 たとえば、宝くじのすべての番号を買い占めたとして、
 それに100億円かかったとします。
 
 で、当選金がどのくらいになるかというと。
 
 還元率45%だから、100億×0.45=約45億円だということです。
 
 残りの55億円は、宝くじの発行元である「日本国」に入るワケです。
 
 
 
 実際は、年間の宝くじ総売上は「1兆円」を楽に越していますから、
 ただ、紙を印刷して、宣伝して、売って、くじ引きするだけで。
 
 5500億円くらいのお金が、入ってくるんですよね。
 
 
 
 なんと効率の良い商売だろうか。(゜▽ ゜)ウラヤマスィ
 
 
 
 競馬や競輪の還元率が70%くらい、パチンコが85%くらい、
 ラスベガスのカジノが95%くらいというのと、比べると。
 
 いかに宝くじが(売り手から見て)素晴らしい還元率か、わかります。
 
 しかし、その還元率の低さにも関わらず、
 年間1兆円以上も売り上げるという、すばらしいビジネスです。
 
 
 
 また、嬉しいことに。
 
 競馬や競輪、またパチンコには、年齢制限がありますが。
 宝くじには、年齢制限がありません。
 
 小学生が買ったって、いいんですよ。
 小学生が堂々と出来る唯一のギャンブル、それが宝くじです。
 
 最近の子供は、シックスポケットとか言われるように、
 お金が有り余っているらしいですからね。(みんなDS持ってるらしいし)
 
 この重要な購買層にアピールできる唯一のギャンブル媒体、それが宝くじ。
 
 
 
 しかも、競馬や競輪やパチンコにハマった人は「ギャンブル狂」みたいに
 言われますけれど、宝くじっていうのは、かなりの市民権を得ています。
 
 たとえ還元率がパチンコの半分程度であろうとも、
 宝くじを買っているからといって、ギャンブル狂だと思われることは、
 ありません。「健全」なイメージがついているんですよね。
 (それこそ、小学生が買ったって大丈夫、というほどに)
 
 
 
 トヨタも、ソニーも、任天堂もかなわないほどの、スーパービジネス。
 もっとも効率的に利益を稼ぎ出し、クレームもこない、理想のビジネス。
 
 競争相手もおらず、企業努力も必要ない。
 
 年間5500億円以上の利益を安定的にあげられる。
 売り上げは、今も伸び続けている。
 
 そして、誰からも嫌われない。むしろ感謝されちゃったりする。
 
 
 
 本当に、ものすごいビジネスです。
 
 
 
 唯一欠点を挙げるとすれば。
 
 宝くじを「売る」のが違法だっていうこと。くらいですかね。


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ラベル:ギャンブル
posted by 加藤のどか at 15:04| 高知 ☀| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

キジの卵

 田んぼや畑っていうのは、毎年毎年、作物を作っていると、
 だんだんと土地が疲弊してしまいます。
 
 土地が疲弊すると、作物が病気になったり、収穫量が減ってしまうんですね。
 
 ですから、2年〜数年に一度、全く作物を作らず、
 「土地を休ませる」ということを、行います。
 
 
 
 ・・・なんて、知ったように書いていますが。
 
 実際、僕はまだピンと来ていないんですけれどね。
 そりゃ、田舎に引っ越して、まだたったの2年ほど。
 
 一つの土地が疲弊するほど作物も作っていなければ、
 休ませてからの輝かしい復活なんていうのも、体験していませんし。
 
 ただ、知識としては知っているというだけなんですが。
 
 ともかく、田畑は数年に一度、そうやって休ませるわけです。
 
 
 
 ・・・一応、言っておきますと。
 
 ビニールハウスなんかやっていて、設備にお金がかかっている土地で、
 1年も土地を休ませたりしたら採算が合いませんからね。
 
 そういう土地では、毎年毎年休まず、作物をつくるはずです。
 
 土地を休ませるのは、ある意味、土地を休ませられるだけ土地が余っている
 ドイナカに限られるかもしれませんが。
 
 ともかく、うちの周りでは、田畑を数年に一度、休ませるところが多いのです。
 
 
 
 で。
 
 
 
 休ませるってことは、何もしないわけですから、
 1年の間に、草はボウボウに生え茂り、ちょっとした草むらになります。
 
 人間の背丈に近いくらいの草も、生えますね。
 たった1年で、そのくらいの草むらができるワケです。
 
 
 その「草むら」を、どうやって畑に戻すかというと。
 
・一生懸命、草刈機で草を刈りまくる
   ↓
・しばらく放っておくと、刈った草がしんなりする
   ↓
・トラクター(耕運機)で、草と土をまぜこぜする

 という作業を経て、再び畑に元通り、とあいなるわけです。
 
 この「休ませる」という1年をつくることにより、
 地力は復活し、また元気な作物が育つということになるんですね。
 
 
 
 で。
 
 
 
 その「休ませた畑」改め「草むら」を、
 草刈機でウンショウンショと刈っていたところ。
 
 
 
 草むらの中から、卵が出てきました。
 
 
 
 ピンポン玉のような、まあるい卵。
 絵に描いたような「鳥の巣」に、きれいに10個ほど、収まっています。
 
 
 誰の卵だろう?
 
 
 近くの農家さんに聞いてみると、「ほりゃキジの卵や」とのこと。
 
 
 そうか、ちょいと人間が留守にしている間に、
 キジさんがここに住み着いてしまったワケですね。
 
 巣ごと移動してやろうか、でもそうすると親キジは気づかないか。
 じゃあ、しばらく、この周りだけ草むらを残しておくかなぁ・・・
 
 
 なんて思っていたら。
 
 
 「もう、草ぁ刈ってしもうたら、キジは戻ってこんで。
  キジぁ警戒心の強えぇ鳥やからな。人が入ったら、もうあかんで。
  卵もったいないから、もってかえって、食べてみぃやー」
  
 と、先の農家氏。
 
 
 人間が一度、テリトリーに足を踏み入れたと知るや、
 キジの親は、もう二度と戻ってこないそうです。
 
 見捨てられた卵たち。(ま、僕が草を刈ったんだけどね)
 
 すいませんね、母キジさん。せっかく産まれた卵なのに。
 別に悪気があったわけじゃないんですが。
 何の因果か、こうなってしまったのです。
 
 
 田んぼや畑で食べ物をつくるってのは、
 キジをはじめ、いろんな動物の住処を奪うってことでもあるんですが。
 
 そんなことを気にしていては、米や野菜は作れませんし。
 
 ま、しょうがないことです。
 
 
 
 もってかえって、食べたキジの卵の味は。
 
 ほろ苦かっただの、しょっぱかっただの、逆にすごく美味しかっただの言えば
 うまくこの文章もまとまるんでしょうが。
 
 
 
 いたって普通の味でした。


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posted by 加藤のどか at 15:03| 高知 ☀| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

書評:週2日だけ働いて農業で1000万円稼ぐ法

 土曜日は、各種おすすめ本を紹介する書評の日。

 きょうご紹介するのは、
 堀口博行著『週2日だけ働いて農業で1000万円稼ぐ法』です。
 
 
 まず、著者の方がどんな人物か、さくっと説明しますと。
 
・実家は北海道の農家さん
  ↓
・家の事情で、実家の農家に帰ることになる
  ↓
・サラリーマンを続けながら、土日だけ農業をする生活
  ↓
・労働力は、自分(週2日)と、母親と、パートさんが一人
  ↓
・野菜栽培を中心に、1年目は利益400万円、
 2年目は600万円、3年目は1000万円を、農業だけで稼ぎ出す
  ↓
・その経験をもとに、本を出版した(今ここ)


 という方ですね。
 
 農業系の本の中では珍しく「ビジネス」の視点から書かれた本です。
 
 
 ちょっと農業の勉強をした方ならば分かるでしょうけれど、
 一般のビジネス書のような「農業本」って、ほとんど無いんですよ。
 
 
 農業系の本となると、昔ながらの「農業技術書」みたいな、
 全く読む気の失せるような教科書のような本か。
 
 もしくは、有機無農薬農業と、ちょっとした自然哲学を織り交ぜて、
 あいだみつを風味に仕上げたロハス本か。
 
 
 農業を、きちんと「ビジネス」の視点から捉えた本というのは、
 僕が知る限り、杉山経昌さんの『農で起業する』シリーズくらいしか、
 ありませんでした。(これは以前に土曜の書評で紹介したことがあります)
 
 
 この『週2日で1000万円』は『農で起業する』シリーズに次いで、
 いろいろ、うなずかされるところの多かった農業本。
 
 
 といっても、『農で起業する』で提唱されているのが、
 SOHOのような、超スモールビジネス農業なのに対し。
 
 『週2日で1000万円』で提唱されているのは、
 どちらかというと「昔ながらの農業を、きちんとビジネス的に
 捉え直したら、儲かるようになりました」という感じの、農業です。
 
 具体的に言えば『週2日で1000万円』では、
 直販での販売は薦めず、農協出荷だけに絞ったやり方を提唱しています。
 
 『農で起業する』が、直販一本で出荷していたのとは、大きく違います。
 
 もっとも、この違いというのは、
 『農で起業する』の杉山氏は新規就農者であり、
 『週2日で1000万円』の堀口氏は農家の息子だという違いから、
 由来する部分が多いと思います。
 (すいませんね、みんなが『農で起業する』を読んでいる前提で書いて)
 
 
 
 実際、『週2日で1000万円』では、僕の思う「新規就農の方法」と、
 いくつか同じことを推奨している部分も、あります。
 
 共通点を挙げると
 
 
・農業フランチャイズには、加盟してはいけない

・農業研修は受けてはいけない(農家でアルバイトをすれば十分)

・作業を積極的にアウトソーシングする

 
 なんてことは、僕も100%賛同しますね。
 (その理由は、本を読んでください)
 
 
 逆に、賛同できないところとしては
 
・農協出荷一本に絞るべき

 というところ。
 
 
 もっとも、これは、僕が住んでいる地域(高知県山間部)が、
 極端に「弱い農協」の地域だということも、あるでしょう。
 
 
 ご存知ない方もいるでしょうけれど。
 というか、そのほうが大半でしょうけれど。
 
 
 「農協」っていうのは、一つの大きな組織というより、
 各地域によって、全く別の組織だと思ったほうが正しいんです。
 
 地域によって「販売力の強い農協」もあれば「弱い農協」もある。
 
 で、農協出荷をするということは、
 地域の農協の「子会社」になるようなものなんです。
 
 だから、弱い農協の地域で農業をはじめれば、
 いくら自分ががんばろうとも限界がある。
 
 逆に、強い農協の地域で農業をはじめれば、
 みんなと同じようにやっていても、儲かっちゃう。
 
 そんなイメージなんです。
 
 
 
 著者の堀口氏の実家があるのは、おそらく、
 かなり強い農協のある地域なのでしょう。
 
 有力な栽培品目が設定されていて、農協に出荷するだけで、
 かなり安定した価格で買い取ってくれる。
 
 そういう地域だと「生産」に100%集中して、
 農業をやることができるんですが。
 
 
 
 僕の住む高知県山間部、また、『農で起業する』の杉山氏が参入した
 宮崎県の山奥というのは、(おそらく)農協が弱い地域です。
 
 そういう地域に参入したのであれば、農協出荷という選択肢をとるより、
 直販のほうが、農業で稼げる可能性は、ずっと高いと思うのです。
 
 まぁ、著者の堀口氏に言わせれば、実家を継いだのならばともかく、
 新規参入で「弱い農協」の地域に行く時点で、失敗なんでしょうけれど。。。
 
 
 
 あ、それともう一つ。
 
 
 
 よく、農業を始めるのには1000万円必要だとかいう話もありますが、
 堀口氏の提唱するやり方では、250万円もあれば十分だということ。
 
 僕も、そう思います。
 
 農業って、意外と低資金で始められる仕事なんですよ。
 
 その250万円にしたって、ちゃんとした資金を借りることができれば、
 自己資金0からだって始められちゃいますからね。
 
 
 
 本書の中で説明されている、野菜栽培のテクニックや、
 季節ごとの作業の事例というのは「北海道の長ネギを中心とした野菜栽培」の
 事例であり、ほかにはなかなか応用できないかもしれませんが。
 
 農業をビジネスの視点から考えた、いろいろな提案というのは、
 ぜひとも読んでほしいものです。
 
 一般のビジネス界では「常識」のことも、農業界に持ち込むと、
 とたんに「非常識」になったりするんですよね。
 
 たとえば、自分でやると効率が悪い作業(たとえば、単純な草取り作業)
 なんかは、さっさとパートのおばちゃんなどを雇って、
 アウトソーシングするべきだと思うんですけれど。
 
 農家の中には「農家たるもの、すべての作業を自分で把握し、
 常に畑の状況を観察しつつ、畑と会話するつもりでやらなくてはいけない。
 草取り作業をしながらも、作物の状況を観察し、そこから学べることも
 たくさんあるのだから」なんていうことを言う人もいます。
 
 ま、それも一理あるんですけれど。
 
 「儲け」という観点からいえば、さっさと「草取りが得意」な人を
 雇っちゃったほうが、早い。
 
 そういう、一般のビジネスでは、おそらく「当たり前」とされている
 ことが、農業の世界では、非常識なことだったりするんですよ。
 
 
 
 と、いうことは。
 
 
 
 一般のビジネスの常識を身につけた上で、農業界に参入すれば。
 すっげー効率化して、バリバリ儲けられちゃうんじゃないの?
 
 なんて可能性を、真剣に思わせてくれるんです。この本は。
 
 
 「家庭菜園」をやる人には、決して必要のない本ですが。
 「農業」を目指す人には、ぜひとも読んでほしい本ですね。




 

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posted by 加藤のどか at 15:02| 高知 ☀| 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

自信

 僕は、全く知り合いのいない山奥に、
 東京のど真ん中から引っ越したワケですが。
 
 
 そういう経緯を人に話すと
 
 「若いのに思い切ったねー。不安じゃなかったの?」とか、聞かれます。
 
 そりゃ、不安なこともありました。
 でも、何とかなるだろうという自信もあったんです。
 
 
 そう言うと
 
 「なんでそんな自信があったの?」とか、聞かれます。
 
 そこで困るんですよね。
 
 
 
 僕は、誰も知り合いのいない土地に引っ越しても、
 何とかなるだろうという自信はありました。
 
 お金も、人脈も全く無いけれど、何とかなるだろうと思っていました。
 (そして、現に何とかなっています)
 
 だけど「なんでそんな自信があったの?」なんて聞かれると、
 困っちゃうんですよね。
 
 そこに、根拠なんて無いんですから。
 
 
 
 初めて暮らす土地ですし、東京以外に住んだ経験もないし、
 社会人経験もほとんど無い人間でしたから。
 
 自信の根拠なんて、持ちようがありません。
 
 だけど「なんとかなる」という、根拠のない自信は持っていたんです。
 
 
 
 自信には、2種類の自信があると思います。
 
 根拠のある自信と、根拠のない自信。
 
 
 「開成に入学できたから、東大に入れる」
 「甲子園に出場できたから、プロ野球に入れる」
 「年収1000万円あるから、すてきな人と結婚できる」
 
 
 なんていうのは、根拠のある自信ですね。
 
 誰かと比較した上での自信ですから「相対的な自信」と言うこともできます。
 
 こういう自信は、たしかに、根拠があるから強いんですが、
 その分、脆く(もろく)もあります。
 
 世の中、上には上がいるものですから、
 相対的な比較をしている限り、いつか、自分が「下」に回るときがある。
 
 そうすると、相対的な自信というのは、崩れやすいと思うんです。
 
 
 
 「東大に合格した」という自信を得られた人の中にも
 「東大生の中の最下位」は、必ず現れるんです。
 
 そういう人が、自信をいつまでも持ち続けられるでしょうか。
 
 プロ野球選手になれても、自分より野球がうまい人は、いくらでも現れます。
 年収1000万円になっても、年収100億円の人には、かないません。
 
 根拠のある自信というのは、ほかの誰かがその根拠を上回ることができるので、
 いつかは崩れてしまうものだと思うのです。
 
 
 
 では、根拠のない自信というのは、どこから生まれるのか。
 
 
 
 根拠のない自信に、理由なんかないんです。
 ですから、どこから生まれるということも、ない。
 
 「まず、そこにあるもの」なんです。根拠のない自信というのは。
 
 やったことは無いけれど、できると思う。
 僕ならば、必ずできるはずだ。
 
 そんな自信に、理由なんか無いですよ。やったこと無いんですから。
 
 根拠は、無い。まず、自信があるんです。
 
 
 
 宗教みたいなものですよ。
 
 熱心な信者さんに「なぜ神様がいると思うんですか?」なんて
 野暮な質問をしたって、意味が無いでしょう。
 
 それは、大前提なんですから。
 神様がいることを、疑うことなんて、ないんですから。
 
 それと、同じことです。
 
 根拠のない自信というのは「自分を信じる」こと。自分教なんですよ。
 
 世間よりも、家族よりも、キリストよりも、ブッダよりも、
 自分のほうが正しいと信じる。自分教に入信するってことです。
 
 
 
 根拠のある自信というのは、固くて、一見強固だけれど、
 何かの衝撃があれば、一気に崩れてしまうこともあります。
 
 重厚なガラス細工のようなものです。
 
 
 根拠のない自信というのは、一見、頼りなさげだけれど、
 どんな衝撃も受け流してしまい、崩れることがありません。
 
 柔らかいゼリー状の物質、ぷにぷにした柔らかいものなんです。イメージでは。
 
 
 
 自分を振り返ってみて、なぜそんな「根拠のない自信」があったのかは
 分かりませんが、ともかく、まず、自信があった。
 
 根拠のない自信さえあれば、何でもできると、僕は思うんです。
 
 それは、絶対に正しいという自信があります。
 
 根拠は、ありません。


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posted by 加藤のどか at 15:00| 高知 ☀| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

カレーとうんこ

 
 「カレー味のうんこと、うんこ味のカレー、食べるならどっち?」
 
 
 という質問。
 
 
 誰もが、長い人生において、少なくとも一度は
 尋ねられたことのある質問だと思います。(特に男性は)
 
 思い返せば、僕も小学生時代、
 斯様(かよう)な質問を、友人のY君やF君から尋ねられた記憶があります。
 
 
 しかし。
 
 
 当時の僕には、カレー味のうんこと、うんこ味のカレーの、
 どちらが良いか判断するほどの知識もなければ、決断力もありませんでした。
 
 おそらく、「えー、どっちも嫌だよー(笑)」みたいな、
 適当な回答で、お茶を濁してしまったのだと思います。
 
 
 
 あれから、二十年近い月日が流れ。
 
 
 
 僕も、人並みに、いろいろな経験を積んできました。
 あの頃の僕よりは、適切な判断が出来ることだと思います。
 
 このメルマガを、Y君やF君が読んでいるとも思えませんが。
 
 ネット上に情報発信をすることで、回りまわって、
 この文章がY君、F君の目に届くことを祈りつつ。
 
 二十余年前の、友人の問いかけに、今、答えようと思います。
 
 
 
 
 カレー味のうんこと、うんこ味のカレー。
 食べるなら、どっち?(関口&三宅)
 
 
 
 
 いろいろ、ネット上で情報収集をしてみると。
 この質問に対する回答は、圧倒的に、一方に偏っていることが分かります。
 
 大体、7:3くらいでしょうか。
 
 人気なのは、圧倒的に「うんこ味のカレー」です。
 
 「カレー味のうんこ」といっても、やはり、それは「うんこ」。
 うんこを口にするということに抵抗感のある人が、大半なのでしょう。
 
 たとえ味はうんこであっても、実態がカレーである「うんこ味のカレー」を、
 選ぶ人が大半のようです。
 
 
 
 
 しかし、皆さんは本当に分かっているのでしょうか。
 
 いや、おそらくは理解していないと思います。
 
 
 
 
 「うんこ味のカレー」とは、そもそも何なのか。
 そして「カレー味のうんこ」とは、どのようなものなのか。
 
 
 
 皆さんは「うんこ味のカレー」と「カレー味のうんこ」という単語を聞いて、
 頭の中に、どのような絵を思い浮かべるでしょうか。
 
 おそらく、半分くらいの方は、見た目は「カレー」の料理が2皿、
 並んでいる映像を、頭の中に浮かべているのではないでしょうか。
 
 
 片方の皿の実態は「カレー」だけれど、味は「うんこ」。
 片方の皿の実態は「うんこ」だけれど、味は「カレー」。
 
 
 このような二択を、思い浮かべているのではないでしょうか。
 
 
 
 その時点で、間違っているのです。
 
 
 
 「うんこ味のカレー」は、それでいいです。見た目はカレーなんです。
 
 でも「カレー味のうんこ」の見た目が、カレーであっては、いけないのです。
 「カレー味のうんこ」は、あくまで「うんこ」。見た目も「うんこ」です。
 
 たとえ原材料が「うんこ」であろうとも、
 調理をして、皿に盛って、カレー風にしてしまった時点で、
 もう「うんこ」ではないのです。形状が全く違うのです。
 
 餅を「もち米」だとは言わないでしょう。
 大根おろしを「大根」だとは言わないでしょう。
 
 うんこは、あくまで、うんこの形をしていなければなりません。
 調理などをしては、いけないのです。
 
 
 
 では。改めて。
 
 
 
 「うんこ味のカレー」「カレー味のうんこ」なるものが、
 どのようなものであるか、考えてみましょう。
 
 
 まず、うんこ味というのは、どのような味であるのか。
 
 
 僕は、いまだかつて、うんこを食べたことがありません。
 
 かといって、このメルマガのために、うんこの味を確かめるほどの
 情熱と行動力を、僕は有しておりません。
 
 また、うんこの味を確かめたくないほどのプライドは、有しているのです。
 
 
 
 ですが、この情報化社会。
 うんこを食べたことのある人の発言は、容易に手に入ります。
 
 例えば、こちら。
 http://www.member.co.jp/ura/guest/no24.html
 
 率直に「苦い」らしいですね。
 そして、うんこは意外にも、体に害は無いようです。
 
 いくら雑菌が多いとはいえ、考えてみれば、
 何分か前までは体内にあったものなんですからね。
 
 食べて病気になるほどの毒物があるほうが、おかしいですね。
 
 
 
 また「うんこ味のカレー」のレシピなるものも、入手することが出来ました。
 http://offreport.fc2web.com/unko_curry/recipe.html
 
 上記サイトで紹介されている「うんこ味のカレー」の材料は、
 このようなもの
 
 米 …4合
 シラタキ …90g
 カレー粉(甘口) …210g
 ガーリック …適量
 さんま …2尾
 くさや …2尾
 コーン(缶詰) …270g
 豚挽肉 …350g
 タマネギ …2玉
 ゴーヤ(にがうり) …1本
 人参 …1本
 にがり …少量
 野菜ジュース …180ml
 センブリ …8g
 かりんとう …適量

 
 なるほど、クサヤでうんこの匂いをつけ、
 ゴーヤ・センブリ・にがり・さんまの内臓で「苦味」を演出するわけですね。
 
 大変よくできた「うんこ味のカレー」レシピです。
 
 ただ、惜しむらくは、あくまでうんこ「味」を追求するのですから、
 僕としては、コーン等の「うんこの見た目」を演出する素材は、
 必要なかったのではないか、と思います。
 
 見た目は完璧なカレー、しかし、味はうんこ。
 つまり、苦味と匂いの追求のみにしたほうが、良いのではないか。
 
 ですから、カレー粉もできるだけ減らしたほうが良いです。
 なぜなら、カレー粉を入れれば、どうしても「カレー味」になりますから。
 
 せっかくの「うんこ味」が消される運命にあるのです。
 
 
 
 ケチをつけてしまいましたが、上記レシピが、
 大変よく出来たものであることは、間違いありません。
 
 ですから、上記レシピをベースに、僕のアイデアを付け加えさえてもらい、
 より理想の「うんこ味のカレー」に近づけたいと思います。
 
 
 僕の考える「うんこ味のカレー」は、以下のようなものです。
 
 
 まず、市販のカレールーは使いません。
 
 どうしても、カレールーを使った時点で
 「カレー味」に近いものになってしまうからです。
 
 しかし、カレー味ではなくとも、「うんこ味のカレー」ですから、
 「カレー」でなくては、いけないのです。
 
 カレーでありつつ、カレーの味を感じさせてはいけない。
 この大きな矛盾を解決しなくては、いけないのです。
 
 
 そもそも、カレーの定義とは、以下のようなもの。
 
 
  カレー【curry】
  肉・野菜などを煮込み、カレー粉で味を付けたものを
  飯に添えたり、かけたりした料理。
 
 
 問題は「カレー粉」です。
 
 カレーの本場インドでは、「カレー粉」というものは、ありません。
 
 インドには「各種スパイス」があるだけで、「カレー」という言葉は、
 いわば「スパイス煮込み」のような意味の単語なんですね。
 
 ミックススパイスの「ガラムマサラ」はあるとしても、
 基本は、クミン・コリアンダー・コショウといった、
 各種単一のスパイスの組み合わせが「カレー」なのです。
 
 ですから、カレー粉を構成するスパイスの中から、
 うんこ味を損なわないものを選び抜き、
 「カレー」であるという大義名分のみを欲するのです。
 
 
 
 結論から言います。
 
 
 
 僕が「うんこ味のカレー」に使うスパイスは、以下の5種類です。
 
 ターメリック・サフラン・パプリカ・ガーリック・くちなし。
 
 5種類というと、そんな少ないスパイス量で、
 果たして「カレー」と言えるのかと、不安になる方もいるでしょうが。
 
 実は、4種類もあれば、十分、カレーというべき代物は出来上がります。
 http://allabout.co.jp/gourmet/cookingmen/closeup/CU20020423rcp3/
 
 こちらのサイトで挙げているスパイスは
 クミン・コリアンダー・チリ・ターメリックの4種類ですが。

 これで立派な「カレー」と言えるのですから、
 たった5種類のスパイスしか使いませんが「カレー」と言い張っても、
 問題ないと思います。
 

 クミン・コリアンダー・チリのような、味に関係するスパイスは
 「うんこ味」を損なう恐れがあるので、「うんこ味カレー」のスパイスからは
 外させてもらいます。
 
 僕が選んだ5種類のスパイスのうち、
 ターメリック・サフラン・パプリカ・くちなしの4種類は、
 ほぼ「色づけ」のためだけの役割です。味は、ほとんどしません。
 
 唯一、味に関係するスパイスはガーリックですが、これは、
 うんこ味にもうまく溶け込むであろうと思うので、選出しました。
 
 この5種類のスパイスを使うことによって「カレー」であるという
 大義名分を得られます。
 
 市販のカレー粉を使うよりも、ゴーヤ・せんぶり等のにがみ(うんこ味)を
 より際立たせてくれるはずです。
 
 
 そして。
 
 
 「うんこ味のカレー」といえどもの、やはりカレーですから、
 肉・じゃがいも・ニンジンなどの定番の具は入れます。
 
 ただし、なるべくダシが出ないように、最後の最後に、入れるようにします。
 煮込んで「肉の旨味」などが溶け出してしまえば、
 肝心のうんこ味が阻害されてしまいます。
 
 ゴーヤ・せんぶり等の「うんこ味調味料」に、
 5種類のスパイスを加えたカレールーをつくり、最後に、
 あらかじめ別の鍋で火を通しておいた肉・じゃがいも・ニンジンを入れて完成。
 
 
 
 これが「うんこ味のカレー(改訂版)」の作りかたですね。
 
 
 
 説明が結構長くなりましたが、これを作るのは簡単です。
 次に説明する「カレー味のうんこ」に比べれば、100倍楽勝です。
 
 
 
 問題は「カレー味のうんこ」なんですよ。
 これを、いかにして作るかが、非常に難しい。
 
 
 
 勘違いしている方が大半でしょうから、
 もう一度、釘をさしておきますが。
 
 「カレー味のうんこ」は、あくまで「うんこ」なんです。
 調理をしたら、いけないんです。
 
 体内から出てきた、その時点で「カレー味」でなくてはいけないんです。
 
 
 これが大変難しい。
 
 
 実際、カレーの材料のみを食べ続ければ、
 カレー味のうんこに「近い」うんこは、体内から出てくるようです。
 
 しかし、それが「カレー味」かと問われれば、ほど遠い存在。
 まだ「うんこ味」のほうが勝っているわけです。
 
 あくまで「カレーの風味がするうんこ」であって、
 「カレー味」と言えるまでのうんこは、なかなか出すことが出来ません。
 
 
 
 ここは、発想の転換が必要です。
 
 
 
 うんこなんだから、どうしても、うんこの味はしてしまう。
 うんこの味がしないうんこは、どうやったら手に入るのか。
 
 カレーの味をつけるよりも前に。
 うんこの味を消すことのほうが重要ではないのか。
 
 
 そう。
 
 
 何も、人間のうんこじゃなくったって、いいんです。
 
 「カレー味のうんこ」という言葉の中には
 「人間の」という断り書きが、ありません。
 
 うんこというのは、一般的に、人間のような雑食動物、または肉食動物の
 ほうが臭く、草食動物のうんこのほうが、匂いがしないものです。
 
 実際、アフリカの、とある地域では、
 象のうんこをお茶にして飲んでいるところもあるくらいです。
 http://www.maisha-raha.com/sotokoto05aug.html
 
 草食動物のうんこというのは、乾けば、ほぼ無味無臭。
 
 我々が想像するような「うんこ」の匂いや味はしないものの、
 やはり定義は「うんこ」です。
 
 
 これぞ「カレー味のうんこ」を制作するにあたり、
 最適のうんこではないでしょうか。
 
 
 要は、我々としては「うんこである」という定義だけが欲しいのであり、
 「うんこ味」は、できるだけ無いほうが良いのですから。
 
 人間ではなく、草食動物のうんこを使用しましょう。
 
 
 
 以下に、僕が考える「カレー味のうんこ」の作りかたを、紹介いたします。
 
 
 
 まず、適切な草食動物を用意します。
 
 体内に食物がとどまる時間が長いほど、うんこ味がつきやすく
 なりますから、大型動物よりは、小型動物が良いですね。
 
 象や牛よりは、鹿や山羊のほうが向いていると思います。
 ウサギくらいに小型動物でも、良いですね。
 
 カレー味のうんこを作るべき動物は、
 生まれたときから、できるだけ腸内に悪玉菌がつかないように、
 徹底管理された餌で飼育します。(当然、無菌室の中にて飼育)
 
 
 うんこ味の元になるのは、悪玉菌。
 
 
 腸内を、美味につながるような良性菌だけで埋め尽くせば、
 「うんこ味」を極限にまで抑えることができます。
 
 そのように飼育された動物に対し、
 各種スパイスを配合した餌を与えます。
 
 動物の健康を損なわない限界まで、スパイス量は増やしましょう。
 
 おそらく、スパイスの大半は消化されず、風味を保ったまま、
 動物の体外へと排出されるはずです。
 
 イメージとしては
 「カレーの材料を、清浄は草食動物の体内を通過させる」
 という感じです。
 
 ウサギならば、スパイスの効いた、ピリっとしたうんこを
 コロコロと出してくれるはずです。
 
 当然、スパイスのみならず、塩味・旨味などが、
 うんこに残るように、餌は試行錯誤を繰り返しましょう。
 
 かなり大掛かりなプロジェクトとなりますが、
 結果、ほぼうんこ味のしない「カレー味のうんこ」が
 出来るのではないかと、僕は予想しています。
 
 
 
 
 さて。
 
 
 
 
 両陣営の料理が出揃いました。
 
 
 
 極限まで「カレー味」をおさえて、苦味のみを抽出した
 「うんこ味のカレー」か。(三宅陣営)
 
 幾多の草食動物の犠牲と、何年にもわたる実験の上に生み出された
 「カレー味のうんこ」か。(関口陣営)
 
 
 
 ・・・・・・どっち?



◆うんこ味のカレー
http://clickenquete.com/a/a.php?M0002765Q0028073A19f3d
◆カレー味のうんこ
http://clickenquete.com/a/a.php?M0002765Q0028073A2a71d









 ちなみに。
 
 僕が選ぶのは「カレー味のうんこ」です。
 
 そこまでして作った「カレー味のうんこ」ならば、
 むしろ、食べてみたいくらいです。
 
 
 そして。
 
 
 Y君。F君。二十年来の答えが、やっと出ました。
 今ならば、自信をもって、君達に対して答えることができます。
 
 
 
 僕が食べるのは。「カレー味のうんこ」です。



○結果を見る
http://clickenquete.com/a/r.php?Q0028073C540f
○コメントボード
http://clickenquete.com/a/cb.php?Q0028073P00Cc18c


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posted by 加藤のどか at 14:59| 高知 ☀| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

挨拶

 僕の、人に誇れる特技の一つ。
 
 それは、挨拶です。
 
 
 「ノリト君、ユミコさん、このたびはご結婚、誠におめでとうございます。
  これから輝かしい未来を歩まれていくお二人に、ワタクシから、僭越ながら
  一言述べさせていただきます。夫婦で共に歩んでいく人生には、3つの袋が
  大切だといわれております。一つは、給料袋でございます。これから、子供
  を産み、育て、しっかりと家庭を築こうとしていく者として、やはり、家計
  というものは、大変重要なことであります。夫婦しっかり強力し、旦那さん
  は外でしっかり働き、奥さんは内を守る。お互いに足りないところを補いな
  がら協力して生活していくというのが、夫婦のあるべき形ではないかと、私
  などは思うわけでございます。二つめの袋は、堪忍袋でございます。長い夫
  婦生活、時にはお互い、頭にくることもあるかもしれません。まぁ、お若い
  お二人には、まだ想像もつかないかもしれませんが(大人笑い)。先ほどの
  給料袋のことで、いろいろないさかいが起きることもあるかもしれません。
  そんなときに大切になるのは、この二つ目の袋、堪忍袋でございます。時に
  は堪忍袋の緒が切れそうになることも、あると思います。ま、私などは、よ
  く家内の堪忍袋の緒を切らせてしまうこともあるのですが(大人笑い)。お
  二人は、そのようなことが無いように、しっかりと堪忍袋の緒を守り、幸せ
  な家庭を築いていってほしいものです。さて、三つの袋の、最後の一つ。そ
  れは、お袋でございます。お二人を、ここまで立派に育ててくれたお母様方
  の、今までのご苦労、ご辛抱などは、いかばかりのものかと思います。若い
  お二人は、これから子供を産み、育て、新たな家庭を築かれていくわけです
  が、その一方で、今まで育ってきた家庭、お二人のお袋を、何よりも大切に
  していただきたいと思うのです。いままで、お二人を育ててくださったお母
  様を、今度は、お二人が支える番でございます。新郎は、今は新婦のことで
  頭がいっぱいかもしれませんが(大人笑い)、時にはおふくろのことを思い
  出していただきたい。そう思うわけでございます。結婚生活に大切な、三つ
  の袋、給料袋、堪忍袋、そして、お袋。この三つの袋を大切にしていただけ
  れば、大変幸せな結婚生活が待っているものと、私は確信するものでありま
  す。はなはだ簡単ではございますが、これをもちまして、私の挨拶と変えさ
  せていただきたいと思います。お二人とも、本日は、本当におめでとうござ
  います」
  
  
 と、いう類(たぐい)の挨拶ではありません。(長いよ)
 
 
 僕が得意なのは、田舎での挨拶です。
 
 
 
 田舎で暮らし始めて驚いたことの一つが、
 あらゆる人から挨拶を「される」ことでした。
 
 
 下校途中の小学生が「さようならー」
 下校途中の中学生が「さようならー」
 ちょっと不良っぽい高校生になると、軽い会釈。
 
 
 いっときますけれど。全員、知らない人です。
 知らない子供から、挨拶をされまくります。
 (一体、どんな教育をしているんだ???)
 
 
 子供でその調子なんですから、いわんや大人をや。
 
 
 通りすがりのオバチャンが、笑顔で挨拶してくる。
 すれ違う車のドライバーとは、会釈をする。
 
 
 そこらじゅうの人から、挨拶をされてしまうのです。
 
 
 そこでね、思ったんですよ。
 これは、こちらから挨拶をしないと、いけないのではないか。
 
 
 知らない人にでも、とにかく、出会ったら挨拶をしまくる。
 
 これが田舎の流儀です。
 
 いや、どこの田舎もそうだとは言い切れませんけれど。
 少なくとも、うちの周りでの流儀は「とにかく挨拶」です。
 
 
 ここで、難しいこと。
 
 それは「距離とタイミング」です。
 
 
 向こうからされる挨拶を返すのは、誰でも出来ます。
 
 ただ、オウム返しに「こんにちは」「おはようございます」と
 言えばいいんですから。
 
 しかし、こちらから挨拶をしようとなると、
 そこに多少のテクニックが必要となります。
 
 
 
 まず、距離。

 どの程度の距離から、あいさつを始めればいいのか。
 
 また、どの程度の距離ならば、どういう挨拶をすればいいのか。
 
 
 
 近くて、声が簡単に届くところならば、普通に声をかけますが、
 あまりに遠い場合には、声が届きにくいことがあります。
 (例えば、沢を挟んだ隣の田んぼの人に、挨拶するとかいう場合)
 
 そういう場合は、声ではなく「会釈のみ」という
 態度の挨拶に頼ることになるわけです。
 
 ある程度、知った人ならば、手を振ったりというジェスチャーもありますが、
 基本は「笑顔をつくって会釈」ですね。
 
 
 声をかけるか、会釈をするか。
 この距離の見極めが、素人には難しいんですが。
 
 
 僕は、一般の人よりも「声で挨拶」の距離を、大目にとっています。
 普通の人が「30メートル以上なら会釈」ぐらいの感覚なら、
 僕は「50メートル以上で会釈」という感じ。
 
 僕は「元気な若者」キャラですから、
 高齢者よりも、気持ち大目に、距離をとっています。
 
 
 
 そして、タイミングの難しさ。
 
 ほとんどの場合、タイミングが問題になることはありませんが。
 一本道で、向こうから誰かが歩いてくる、なんていう場合。
 
 まず、これを無視するのは、田舎の流儀に反します。
 必ず挨拶はしなければなりません。
 
 それを、どのタイミングでやるか。
 
 向こうもこちらも、お互いの姿は視認しています。
 
 ここで、あまりに早いタイミングで挨拶をしてしまうと、
 挨拶をしてから、実際にすれ違うまでの時間が、
 非常に気まずいものになってしまいます。
 
 かといって、向こうが先に挨拶をしてしまうのも、よくありません。
 
 これは、僕の中で「負け」です。
 移住者たるもの、挨拶のタイミングでは負けるべからず、
 という信念が、僕にはあるのです。
 
 
 
 最近、僕が行っている方法は。
 
 相手を観察しながら、相手が挨拶をしそうな瞬間を見計らい、
 こちらが一瞬先に挨拶をしてしまうという、高等テクニックです。
 
 まず、相手を観察するといっても、ジロジロ見てはいけません。
 まるで「気付いていない」かのように、テクテク歩きます。
 
 視線の中央に相手を捉えるのではなく、
 視野周辺部にて観察する感じですね。
 
 
 
 相手がおばちんならば、20歩前後の距離、
 相手がおじさんならば、10歩前後の距離。
 
 ここが、最も、相手が挨拶を発しやすい距離(テリトリー)。
 
 視野周辺部で相手の動きを観察しつつ、
 相手の顔がこっちを向いた瞬間、口を開きかけた瞬間、
 こちらから一瞬先に、笑顔で「こんにちわー」と挨拶します。
 
 もちろん、ここで「待ち構えていた」という雰囲気を出して、
 相手を驚かせては、いけません。
 
 こちらとしては、ものすごく「待ち構えていた」のですが、
 そこを相手に悟らせず、ごく自然な感じで挨拶をいたしましょう。
 
 まるで「あ、今気付きました!」というかのように、
 まるで、今までは相手に気付いていなかったかのように、
 挨拶を発するのです。
 
 
 
 「田舎の初対面のおばちゃんに対する挨拶の自然さ度合い選手権」
 があったら、僕は結構イイ線にいくと思うんですが。
 
 残念ながら、そんな選手権が開催されるという噂を、耳にしないのです。


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ラベル:挨拶
posted by 加藤のどか at 14:58| 高知 ☀| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

幸福

 
 
 ――幸福とは、そのまま変わらないで欲しいような、そのような状態である
 
              ベルナール・フォントネル(1657−1757)―――
 



 
 ヨトウムシ、という虫がいます。
 
 家庭菜園をやっている方には、お馴染みの害虫ですね。芋虫です。
 
 漢字で書くと「夜盗虫」。
 夜になると、活発に活動をはじめ、畑の野菜を食い荒らす。
 
 夜に野菜を盗むから、ヨトウムシというんですね。
 
 
 
 アオムシ(モンシロチョウの幼虫)なんかは、
 キャベツや大根といった「アブラナ科」の野菜しか食べないんですが。
 
 ヨトウムシは、守備範囲が広いです。
 
 アブラナ科も、ナス科も、ショウガまで食べるという、
 農家にとっては永遠のライバルともいうべき虫が、ヨトウムシです。
 (ちなみに、ヨトウムシが成長すると「ヨトウ蛾」という蛾になります)
 
 
 
 ある日。
 
 
 
 「ミニトマトについたヨトウムシを駆除する」
 というミッションを遂行することになった、僕。
 
 
 夏の暑い盛りです。
 
 
 トマトもぐんぐん生長していますが、それに負けじと、
 ヨトウムシも、すごい勢いでトマトを食い荒らしております。
 
 茎、葉っぱ、トマトの果実。
 
 あらゆるところに、ヨトウムシが発生しています。
 
 それを一匹、一匹、手でつまんで取り除くというミッションです。
  
 
 
 その作業の最中。図らずも。
 
 僕は「幸福」というものを体験、否、目の当たりにすることになりました。
 
 
 
  こう‐ふく〔カウ‐〕【幸福】
 
  [名・形動]満ち足りていること。不平や不満がなく、たのしいこと。
        また、そのさま。しあわせ。



 ミニトマト。
 
 人間にとっては「ミニ」トマトですが、ヨトウムシにとっては巨大なトマト。
 
 そのトマトに、上半身をうずめ、一心不乱に食している、
 一匹のヨトウムシがいました。
 
 ただただ、食べることだけに集中し。
 
 下半身がうんこまみれになっていることも、気にしない。
 
 
 
 名も無き彼の姿の、何と幸福なことか!
 
 
 
 そこには、一片の悩みもありません。一片の不安もありません。
 
 ただ、目の前にある赤い果実を、食べつくすのみ。
 
 彼の視界には、トマト以外の何者もありません。
 
 
 これが、葉っぱを食しているヨトウムシならば、そうはいきません。
 
 周りに「空間」がありますから、どうしても警戒します。
 
 葉っぱを食しているヨトウムシからは、
 いけないことをしていながら、いつか見つかってしまうのではないかと
 ビクビクしている、そんな不安が伝わってきます。
 
 
 しかし、トマトの果実に上半身をうずめる彼からは、
 そんな臆病さ、惨めさ、そして不安は、一抹たりと感じることは、ありません。
 
 体の7割ほどを、トマトにうずめ。
 下半身からは、うんこを垂れ流しつつも、一秒たりとも口を休めず食べ続ける。
 
 
 
 僕は、今までの人生で、彼以上に幸福な生き物を見たことがありません。
 
 
 
 彼には、僕の姿は見えていません。
 ただ、大好きなトマトにうずもれているだけなのです。
 
 
 しかし、悲しいかな、彼の立場はヨトウムシ。害虫です。
 
 これが、野に生えるトマトだったならば、ともかく。
 ビニールハウス内に生えるトマトとあっては、彼は敵となってしまいます。
 
 どこか、違うところで出会えたならば。また、運命も違ったかもしれませんが。
 
 悲しいかな、僕は農家。彼は害虫。そしてここは、ビニールハウス。
 永遠に分かり合えることは無いのでしょう。
 
 
 
 しかし、彼の幸福を、1秒でも長く続けてやりたいと思った僕は。
 
 トマトから、彼を引きずり出すのが、忍びなく。
 
 トマトの果実ごと、その果実に埋もれた彼ともども。
 彼が気付かぬように、そっと果実を取り除き、バケツの中に入れました。
 
 
 
 
 
 ――ある人たちにとっては幸福なことが、 他の人たちにとっては不幸なのだ
 
                 レイモン・ラディゲ(1903−1923)―――


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posted by 加藤のどか at 13:59| 高知 ☁| 農業のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

最もキケンな食品

 スーパーで売っている食料品の中で。
 
 最も危険な食品は、何でしょうか?
 
 
 
 中国野菜、冷凍食品、添加物まみれの加工肉など。
 
 いろいろ、健康を害する食料品が並んでいますが。
 
 
 
 それらを、はるかに凌駕するほどの危険性を持ち合わせた食品。
 
 
 
 ペットフード。
 
 
 
 2007年3月、アメリカで、犬や猫の腎不全が相次いで報告されました。
 原因は、大手ペットフード会社「メニュー・フーズ社」の製品。
 
 この「メニュー・フーズ社」という会社は、ペットフードの自社ブランドを
 持っているのではなく、OEM生産を行う会社。
 
 アメリカにも、いろんな種類の(異なったブランドの)ペットフードが
 ありますが、売上上位20ブランドのうち、実に17ブランドを、
 この「メニュー・フーズ社」が製造していたという、超大手メーカーです。
 
 そのメーカーの製品によって、ペットが病気になったというのですから、
 当時は(アメリカでは)大事件になりました。
 
 (このメーカーの製品は、日本にも輸入されています)
 
 
 
 実は。
 
 
 
 ペットフードを規制する法律というのは、日本には、ありません。
 
 いや、正確には。「まだ」ありません。
 
 あまりに問題が起きたために、来年6月から、
 最低限の規制を行う法律が施行されるようですが。
 http://www.data-max.co.jp/2008/11/post_3249.html
 
 今のところ、まだ、ペットフードには
 「原材料表示」「賞味期限」などの表示義務もなければ。
 農薬や食品添加物の、上限値なども、設けられていないのです。
 
 
 
 というか。
 
 ペットフードを管轄する役所が無い、というのが正解です。
 
 一応、農林水産省の管轄ということに、なっているようですが。
 実態は「野放し状態」なんですね。
 
 
 
 では、そんな野放し状態のペットフード。
 
 どんな原材料から、作られているのでしょうか。
 
 
 
 主な原料は、人間の食用には全く適さない、牛や鶏などの廃肉です。
 
 病気におかされた家畜の内臓、腐敗肉など。
 
 海外では、殺処分された犬や猫の肉が、
 ペットフードに再利用されていたという事件もありました。
 (日本では法規制がないため、たとえ犬猫の肉を利用していたとしても、
  法律違反にはならない。もちろん、表示義務も無し)
 
 
 
 人間の食用にはならない、そして、家畜の食用にもならない、
 そして畑の肥料にもならないようなものが。
 
 (最安の)ペットフードの原料になります。

※ちなみに。家畜(牛・豚・鶏など)の飼料には、法規制があります。
 これらは、人間の食用になる肉ですから、安全性の基準があります。
 
※豆知識。原材料が「鶏肉」の場合は、普通に鶏肉が原料だけど、
 「チキン」と書いてある場合は、内蔵・骨・皮・羽なども含んでいる。
 
 
 
 腐敗した、人間の食用には適さない肉を、
 人間の1万倍の嗅覚を持つ犬に食べさせなければいけないんですから。
 
 当然、原材料のひどさを覆い隠すための、添加物が必要になります。
 
 ありとあらゆるテクニックを駆使し、腐敗肉を犬に食べさせるため、
 メーカーは企業努力を続けます。
 
 その結果、開封後1年間も保存できる、腐らない、安い、
 そして犬のウンチも固くて処理しやすくなるような薬品までが使われた
 ペットフードの完成となるわけです。
 
 ペットフードの「消費者」は、犬ではなく、人間ですからね。
 
 犬のニーズではなく、犬を飼う人間のニーズに合わせた結果、
 このようなペットフードが生産されることになったのでしょう。
 
 
 
 では。
 
 かわいい犬猫たちには、何を食べさせたらいいのか。
 
 最近では「ペットのための料理」というものも、あるようですね。
 すごいものになると「ペット用おせち」とか「ペット用年越しそば」とか。
 http://contents.oricon.co.jp/news/40903.html
 
 それはそれで、極端なことだと思いますが。
 
 基本的に、人間と同じものを食べさせとけば、間違いは無いと思います。
 
 
 
 残り物でいいんです。
 
 
 
 ペットフードの歴史というのは、大変、浅いものです。
 50年ほど前に、アメリカで生産されたのが、最初。
 
 それまで、ペットフードなるものは、世の中に存在しなかったのです。
 
 
 
 しかし、犬や猫は、すでに1万年近い時を、人間と共に生きています。
 
 その間、彼らは何を食べていたかというと、人間の残飯ですよね。
 
 
 
 日本でいえば、冷や飯に味噌汁をぶっかけたものを、犬は食べていました。
 ダシを取ったあとの煮干を、猫はかじっていました。
 
 それでいいんじゃないでしょうか。
 
 塩分は犬・猫には大敵だから、冷や飯に味噌汁なんてとんでもない!
 という方も、いるかもしれませんが。
 
 病気の家畜の内臓を、添加物で固めたものよりは、よほどマシだと思います。
 
※でも、残飯だからといって、ネギ・タマネギ・ニンニク・チョコレートなど、
 犬や猫が食べたら体調を崩す食べ物もありますので、注意してください。
 
 
 
 ペットフードで、いくら犬や猫が体調を崩したところで、
 彼らはしゃべることが出来ませんからね。
 
 ペットフード会社に対する抗議活動も、できません。
 
 一刻も早いバウリンガルの実用化が、求められます。
 

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posted by 加藤のどか at 13:58| 高知 ☁| 食べ物のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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