2008年05月29日

肉と魚と野菜と子供

「最近の子供は、肉はよく食べるけれど、魚や野菜を食べなくなった」

みたいな話、誰もが一度は耳にしたことがあると思います。

「魚は骨をとるのが面倒くさいから」
「親の料理の腕が昔よりも下がった」
「甘やかされて我儘になったからだ」

いろいろな原因を言う人がいると思いますが。

僕の考える原因は「魚と野菜は、肉に比べて美味しくないから」ということです。





野菜も魚も「本来」は、とても美味しいものです。
ただし、それは「新鮮」である限りの話。

野菜ならば収穫した瞬間から、魚ならば釣り上げた瞬間から、
味は落ちてゆきます。

野菜と魚は、新鮮であればあるほど、美味しいのです。



採れたての野菜を食べて、顔がほころぶほど美味しかった体験。
釣れたての魚の刺身が、全く臭みもなく、信じられないほど美味しかった体験。

そういう体験は、珍しくないと思います。

しかし、殺したての新鮮な肉が美味しかった体験というのは、
あまり無いのではないでしょうか。
(まあ、そういうシチュエーションも少ないでしょうが・・・)



野菜と魚は、新鮮さが命ですが、肉は違うんです。

肉は、熟成することにより、旨くなっていく食材です。

牛ならば、殺してから1〜2週間後、豚ならば3〜5日後が
食べごろであると言われいます。





と、いうことは。

都会のスーパーに並んでいる食材を考えてみるときに。

流通の時間がかかりますから、野菜も魚も、採れてから大分時間がたっています。
下手したら3日くらいは、平気でかかっています。

その間に、野菜と魚は、ずいぶん味が落ちているんです。

でも、肉は違います。
流通にかかる時間で、肉は熟成されて、美味しくなっているんです。



新鮮なものが手に入りにくい都会で、
肉が好きな子供が増えるというのは、当然のことじゃないでしょうか。

だって、肉が一番美味しいのですから。

子供の味覚は、大人よりも正直です。

大人ならば「野菜や魚は健康のため」と思って、
少しぐらい不味いと思っても、我慢して食べます。

でも、子供は不味かったら食べません。

その結果「お野菜を残しちゃだめでしょおぉぉお!」と子供を叱る
お母様方が、全国各地に出現してしまうのです。



子供が、肉好きになり、野菜や魚を食べなくなった原因。

それは、都会のスーパーでは、
不味い野菜と不味い魚しか、手に入らないからじゃないでしょうか。

子供の味覚は、正直なものだと思うのです。



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posted by 加藤のどか at 17:13| 食べ物のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月28日

百姓

ひゃく‐しょう〔‐シャウ〕【百姓】

1 農業に従事する人。農民。
2 農業をすること。農作業をすること。「代々―をする家」
3 あかぬけない人や情趣を解さない人をののしっていう語。
4 江戸時代、特に本百姓(ほんびゃくしょう)のこと。
5 「ひゃくせい(百姓)」に同じ。


ひゃく‐せい【百姓】

《いろいろの姓(かばね)を持つ公民の意》一般の人民。庶民。ひゃくしょう。





ふうむ。

辞書(大辞泉)によると、そういうことらしいですよ。百姓。

現在は、百姓は「差別語」の一種になっていて、
テレビなどの公的媒体では、あまり耳にすることが無くなりました。

が。

実際の農業現場では、自分のことを「百姓」と呼ぶ人は、結構多いのです。
それも、昔ながらの農家だけではなく、バリバリ稼いでいる若手の農家、
「ビジネスマン」と言ったほうがしっくり来る農家も、「百姓」と
自称することがあります。それは何故か。

きょうは、そんな「百姓」という言葉についての話。





そもそも、百姓の本来の意味は、「農民」ではありませんでした。

もともとは「百の姓を持つものたち」。
つまり「姓を有している人たち、みんな」っていう意味だったんです。

鈴木さんも佐藤さんも山田さんも高橋さんも木村さんも中居さんも香取さんも、
みんなひっくるめて「百姓」。

つまり「人民」みたいな意味だったんですね。

ですから職業的にも、
江戸時代までの「百姓」っていう言葉は、農民だけを指したのではなく、
漁師も商人も鍛冶屋も相場師もヤクザも助さん格さんも「百姓」でした。

ところが、江戸時代に「みんな農業やるべきっしょ!」っていう
農本主義的な流れがあり、いつの間にか「人民=百姓=農業やる人」みたいな
流れになって、「百姓=農民」になったんです。

いつごろ、言葉の意味が変わっていったか、明確には分かりませんが、
明治時代には「百姓=農民」になっていたようです。





ちょっと話は逸れますが。

歴史の教科書にあるような「江戸時代、日本の8〜9割は農民だった」は、嘘。

あれは、もともとは「日本の8〜9割は百姓だった」という文章があったんです。

それを、書いた人(昔の人)は、
「被差別者とか、天皇陛下みたいなエライ人とか、特殊な職業の人を抜いて、
 まあ、日本の8割〜9割は、一般的な人民ってヤツですよ」という意味で
「日本の8〜9割は百姓だった」と書いていたのです。

それを、後の世の現代人が「日本の8〜9割が百姓、つまり農民ってことか!」
と思って、それが教科書の「8〜9割が農民」ということになったらしいです。

なんてことを網野先生が言ってました。たぶんホントのことです。





そんなこんなで「農民」という意味を持つようになった「百姓」ですが。

実際に使われている感覚では、完全なイコールでは無いんですよね。

「百姓」っていう言葉は、もともとの意味は「人民」でしたが、
字面からして「百の仕事を持つ人」みたいな意味でも、使われだしています。

江戸時代の農民も、年がら年中「農業」だけをやっていたわけじゃ、ありません。

冬になれば、ワラジを編む「手工業」に従事します。
手先が器用な人なら「大工」になることもあります。
山に入ってイノシシをとってくれば「猟師」にもなります。

「農民」っていうと、農業だけをやっているイメージですが、
「百姓」っていうと、いろんなことをやっているイメージがあります。


ランキングづけすると、

農業従事者>農民>農家>百姓、みたいな感じで
言語感覚の「農業度」は下がっていくと思います。

(あくまで、百姓が「百の仕事を持つ人」というのは、字面からのイメージです。
 語源的には「百の仕事を持つ人」という意味は、ありません)





ということで。「百姓」。

現代の農家が、自分のことを「百姓」という場合には、
3つのパターンがあると思います。

一つは、昔から言いなれているから。お年寄りが使う場合です。
「オラァ百姓だぁ」っていう、吉幾三みたいなニュアンスですね。これが一つ。

一つは、自虐的に言う場合。
「私は所詮しがない百姓ですよ、へへへ・・・」みたいな感じ。
石坂浩二演ずる金田一耕助がやってきた村の、若い衆の台詞のニュアンスで。



そしてもう一つは、モノカルチャー農業ではなく、
多種多様な職業を組み合わせているが故、
「農業」よりも「百姓」のほうがしっくり来る場合。



現代の農業者は、バリバリやっている人ほど、
農業以外のことにも手を広げています。

例えば、トマトを作っている人が、自分で「トマトジュース」をつくって、
それを売っていれば、「加工業者」であり「販売業者」にもなります。

また、農家民宿を経営していたり、レストランを併設していたり、
観光農園だったりしたら、それは「サービス業」になります。

農業だけではなく、いくつもの職業をかけもっているから、
「農業」よりも「百姓」のほうが、しっくり来る場合があるんです。



この流れですと、第一の意味、第二の意味で「百姓」を使う人は、
今後どんどん減っていくでしょう。(そういう人は年齢層が上だから)

第三の意味で、誇りを持ちつつ「百姓」という言葉を使う人が、
増えてくると思います。

言葉の意味は、時代と共に変化していくものです。

今から100年後には「百姓」が格好いい言葉になっているかもしれません。



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posted by 加藤のどか at 17:12| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月27日

青き瞳の土佐人

僕の住んでいるところは、高知県山間部の、とある町。

高知県といっても、山を一つ越えれば愛媛県でもあり、
反対側の山を一つ越えれば徳島県でもある、といったところ。
そして、車で1時間もかからずに香川県にも出れるという土地です。

まあ、高知というよりも「四国」のど真ん中なわけですね。

そんなところで日々楽しく過ごしているのですが。
移住以来、少し気になっていることがあります。





青い目の人が、おる。





外人じゃないですよ。その辺にいる、ジイサンバアサン。

最初に気付いたときは「あれ、この人、瞳の色が薄いな」と思ったんです。
気付きだすと、会う人、会う人、基本的に瞳の色が薄い。
デフォで「薄茶色」くらいであり「黒」は、ほとんどいません。

中には「灰色」「青色」の瞳の人もいます。
爺さんカラコンつけてんじゃねぇかってくらい、青い瞳。

一人だけなら「この人の先祖に外人がいたのかな」ぐらいに思いますが、
このあたりでは、青い瞳の人を何人も見るんです。





不思議!
なのでググってみました。教えてグーグル先生!





調べてみると、東北地方の一部に「青い目」の日本人がいるという
話は、あるみたいです。

正確な由来は不明だそうですが、昔にコーカソイドが移住したのか、
それともアイヌの子孫か、と予想されているようです。
(アイヌ人には、青い目の人もいるそうです)

ふうむ。

また、四国の一部には青い目をした人が住む地域があり、
それは戦争中のドイツ人捕虜(鳴門市に捕虜収容施設があった)の子孫とも。

ふうむ。

また、高知は太平洋に面していますからね。
江戸時代に外国と(細々と)交流でもあったのか?とか。

ふうむ。



グーグル先生と共にいろいろ考えてみましたが、
「捕虜の子孫」だとか「外国人の子孫」ならば、沿岸部のほうに多いはず。

わざわざ四国山地の山の中に、子孫が住みつくとは思えません。
僕が、一番可能性が高いと思ったのは「アイヌ人」説。

グーグル先生に聞いたところ、
高知という土地は、アイヌとそこそこ関係がある土地らしいですね。

例えば、かの有名な清流「四万十川」。
アイヌ語で「シ」は「甚だ」、「マムタ」は「美しい」。
つまり「シ・マムタ(シマント)」で「甚だ美しい」となるのだそうです。

また「物部川」という川もあるのですが、
「物部(モノベ)」は、「ホロッペ」という「大河」を意味するアイヌ語から
きているとか、きていないとか。

そして、高知県山間部(うちの近く)には「穴内川(アナナイ)」がありますが、
「オンネナイ」というのは、アイヌ語で「大きい川」の意味だとか。
ま、実際は、あまり大きくない川ですがね。

っていうか、近所のジイサマから直接
「この辺にはアイヌ語の地名が多いで〜」みたいな話も、聞いたことありました。
(今思い出した!)






これら、グーグル先生から教わったことと、
中学高校で教わった日本史知識をフル動員して予想してみると。



古代日本には、最初にアイヌ民族(縄文人)が住んでいまして、
そこに大陸から渡来人(弥生人)がやってきたんですっけ。たしか。

縄文人というのは、現代の日本人よりも彫が深く、たまに瞳も青い、
コーカソイド系の人たちだったという話もあります。

で。

渡来系の人たちのほうが、稲作技術を持っていたり、
金属とか使ったりして、強かったんでしょうね。

だんだん、弥生系が勢力を拡大していったらしいです。たしか。

縄文系の人たちは勢力が弱まっていき、
東北や蝦夷(北海道)に追いやられていった、と。

その子孫が、北海道で「アイヌ人」と呼ばれる人たちになりましたが。
一部は、東北の山間部で「青い目の東北人」になったのではないか、と。

そして、また一部の人たちは、四国の山間部で共同体を築いたのではないか。

そう思うんですが。



ここら辺は、平地が少ない土地なんです。(平家の落人伝説も、あちこちにある)

今でこそ、交通にも不便は無いですが、
江戸時代なんか、ここら辺は陸の孤島だったに違いありません。

「稲作」をするには超不利な土地ですから、
稲作技術を持った民族(弥生人)には住みにくい土地です。

しかし、狩猟採取を基本としていた縄文人ならば、
四国の山間部は、東北ほど寒くないし、山深いから動植物も豊かだし、
結構いい土地だったんじゃないでしょうか。

弥生人にとっては、交通の要所でもないし、平地もないし、
何の価値も無い土地ですから、放っておいた。
そんな陸の孤島で、縄文人(アイヌ人)が生き延びていった。

地理的にかなり閉ざされた土地ですから、
外部との交流は少なく、結果的に、縄文人の血が色濃く残ったのではないか。

それが、現代の「目の青い土佐人(山間部の人)」なのではないか。





ってなことを、何の根拠もなく夢想してみたのですが。
真実は一体何なのやら。機会があったら、直接尋ねてみましょうかね。
(カラコンが流行っていたりして)



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posted by 加藤のどか at 17:10| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月26日

神々の食卓

ベストセラーになった『ホームレス中学生』より。

公園で生活せざるを得なくなった田村少年(作者の人)は、
持ってきたお小遣いも底をつき、おなかを空かせていました。

そんなとき、目に飛び込んできたのは、公園の草。
野菜と大差は無いはずと思って、試しに食べてみたそうです。

その結果。

『苦くて緑臭くて美味しくなかった。野菜と大差無いはずなのに、みんなが食べ
 ないわけである。昔の人はちゃんと食べ比べた結果、美味しい草の情報のみを
 残してくれたのだ。昔の人、ありがとう』

と、田村少年は思ったとのこと。

と、いうことを去年だと思いますが、どこぞの「書評」で読んだのが、
何だか強く印象に残っていたのです。あ、『ホームレス中学生』は未読。
書評を読んだってだけの話です。

と、まさかの「読んでいない本からの引用」というマクラから始まる、
今日のメルマガ。一言で言うと「野菜はすげえ」って話です。





田村少年が悟った「雑草は食べられない」
当たり前ですが、意味深いことです。

公園生活を送っていた田村少年が思ったように、昔の人が何千年もかけて
食べ比べて、美味しい草の情報を残してくれたんです。

もっと言えば、何千年もかけて、美味しい草を作ってくれたんですよね。

「野菜」は、生で食べられるものは、いくらでもあります。

トマト・キャベツ・レタス・キュウリなんて、生でいくらでも食べられます。
ミカン・リンゴ・イチゴといった果物は、言うまでもありません。

でも、自然界にあるもので、そのまま食べられるものって、
ほとんど無いんですよね。





日本では「食べられる自然界の植物」は「山菜」と呼ばれています。

でも、ほとんどの山菜は、食べるためにはアク抜き作業が必要です。
生えているものを、バクバク食べられるということは、ありません。

ワラビもゼンマイも、タケノコもフキノトウも美味しいですが、
そのままでは食用になりません。

また、トマトやキャベツのように、そればっかりを食べることも難しいんです。
「野菜」は、「山菜」に比べたら、はるかに食べやすく、美味しいものなんです。

「野菜」とは、人間が作り出した植物なんです。
自然界に生えている、そのままの姿じゃありません。

自然界に「トマト」や「キュウリ」があったわけでは、ないのです。





トウモロコシなんて、原種は、ゴマのような小さい粒が数粒ついているだけの、
とても食用にならないような植物だったようです。

それを、メキシコあたりに昔々その昔に住んでいた人たちが、
何千年もかけて、大きな粒がついた種だけをとり、またその中で
大きな粒だけがついた種だけをとり、突然変異でもっと大きな粒がついたら、
またその種だけをとり、その中で大きなそして美味しい種だけをとり・・・・・

そんな営みを延々と繰り返していった結果、「トウモロコシ」が出来たんです。

その「トウモロコシ」だって、現代人からすれば、固く、粒も小さく、
美味しくないものです。

そのトウモロコシが世界中に広まり、各地で品種改良され、
現代のような、粒が大きく、甘みのある、
とても美味しいトウモロコシが生まれました。

トウモロコシの自然界での姿というのは「まずいトウモロコシ」ではなく、
トウモロコシですらなかったのです。ただの「雑草」だったんです。

「雑草」の中で、何とか食用になるものだけを、
何千年の歴史の中で栽培し、改良し、「野菜」にしていったんです。



まあ、こんなところで『ホームレス中学生』の揚げ足を取るわけじゃ
ありませんが、ちょうど良い例だったので申し訳なく揚げ足を取ってみると。

昔の人が食べていた草も、現代人にすれば「雑草」です。

「雑草」と「野菜」があって、いろいろ調べて野菜を選んだのではなく、
すべてが「雑草」の中から「野菜」を作ってくれたんです。

『昔の人はちゃんと食べ比べた結果、美味しい草の情報のみを残してくれた』
どころの話ではなく、もっとすごいことをやってくれているんですよね。

昔の人は、美味しい草の情報を残したのではなく、美味しい草を作ったんです。





現代の私たちが口にしている野菜や果物は、
人類史上最高の品質を持っている植物たちです。

現代人が食べている「普通」のトウモロコシは、
古代人にしたら、神の食べ物、想像すら出来ない食べ物だと思います。

スーパーに並んでいるのは、世界中の人類が数千年かけて生み出した、
その中でも最も優れた品質を持つ植物たちなのです。

現代のスーパーマーケットは、神々の食卓なんです。



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ホームレス中学生の映画予告を見たときに、小池テッペイはどうなのよと思ったけれど、
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posted by 加藤のどか at 17:09| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月23日

無人島に一つだけ

「無人島に一つだけ持っていけるとしたら、何を持っていく?」

なんて質問、ありますね。

「無人島に一つだけと君は言うけれど、まずはその無人島の規模がどのくらいな
のか教えてもらおうか。頑張れば狩猟採取で生存可能性のあるような規模の島か、
それともドラゴンボールに出てくる亀ハウスのように、流されたらただ死を待つ
しかないような絶望だけが襲ってくるような島とでは、おのずと答えが違ってく
るだろうからね。前者ならば、僕は生存の希望を失わないように現実的な可能性
を考えるが、後者ならば聖書1冊を持っていき、死の前の心の安息だけを求める
という選択をするかもしれないからね。それに、島の緯度も問題だ。ハワイのよ
うな赤道直下の島なのか、それともアリューシャン列島のような極寒の島なのか
によっても、僕の判断は変わってくるだろうからね。そもそも、無人島に流され
るにも関わらず、一つだけ自由に持っていく物を選択できるとは、一体どのよう
なシチュエーションだい?僕が何かの犯罪を犯して、そしてその犯罪を犯した国
が日本ではなく、現在も島流しのような刑罰がある発展途上国であり、そして、
何かの温情で一つだけ持っていくものを選択できる自由が与えられたということ
なのかな?かなり非現実的なシチュエーションであると僕は考えるのだが、その
点は君はどう思う?また、よしんばその点には目を瞑り、僕が真面目に質問に対
して回答したとして、君はそこから何を得るというのだい?」

などという野暮な突っ込みは抜きにして。

きょうは、この質問に対する回答を、真剣に考えてみたいと思います。





「無人島に一つだけ持っていくもの」により、何を成したいかというのは
十人十色でしょうが、ここでは、最も一般的な目的であるはずの「生存」を
目指すものとします。

何より必要なのは、食料です。

食料を得る手段は、大きく2つの方法に分けられます。

狩猟採取か、農耕か。
(他にも、畜産という手もありますが、「一つだけ」という条件上、
 雄雌セットで持っていくには「雄を妊娠した雌」を持っていくしか無いため、
 あまり現実的ではありませんので、除外)


狩猟採取で食料を得たいならば、
回答例として「ナイフ」や「釣り道具」などが挙げられます。

とはいえ、狩猟採取だけで生存するのは難しいでしょうね。

我々みたいな素人が、ナイフ1本、釣り針1本を持っていたところで、
すんなりと獲物が手に入るとは思えません。

時期によっては何日も獲物が手に入らないことも、あるでしょう。
また、ナイフにしろ、釣り針にしろ、その一つを失ってしまえば、おしまいです。

無人島というと、即座に「狩猟採取」による食料生産が思い浮かぶでしょうが、
年単位での生存を目的とするならば、適切ではありません。

最初の収穫までが大変ではあるものの、
やはり「農耕」を取り入れないことには、
長期間にわたる生存は難しいものと思われます。



農耕による食料生産の場合、一つだけ持っていくとしたら、
何を持っていくのが、最も良い方法でしょうか。

ここでのポイントは「無人島」ということ。
つまり、野生種はあれど、栽培種は無いと予想されるのです。

農機具を持っていっても、栽培する作物が無ければ、意味がありません。
「トラクター」や「クワ」を持っていっても、育てるものが無いんですから。

持っていくものは「種」

では、何の作物の種を持っていくのが、適切でしょうか。



炭水化物を得たいのですから、「米」や「麦」と考えたいところですが。
どちらも、食用になるまで加工するのに、大変な手間がかかります。

また、麦はまだしも、米を栽培するのには、
大規模な灌漑施設も必要になりますから、一人では無理でしょう。

すると、候補として残るのは、各種芋類と、トウモロコシぐらいになります。



問題になってくるのが「一つ」という条件です。

つまり、種が欲しいといっても、ジャガイモばかり100個も
持っていくことは、出来ないということです。

ジャガイモなら、1個だけ。トウモロコシなら、1本だけしか、持てません。

栽培効率の点を考えると、ジャガイモやサトイモは候補から外れます。

ジャガイモなどは、1個を埋めて10個になれば、いいほうです。
これでは増力効率が悪すぎます。

栽培効率からいえば、トウモロコシはいいですね。
1本に多ければ1000粒ほどの種がついている品種もあります。

また、栽培期間が短いというのも、魅力です。
種まきから収穫までが3ヶ月かかりませんから、
最初の収穫までを「狩猟採取」で生き延びれば、あとは安泰です。

「1000粒の生きた種がついたトウモロコシ」は、
かなり有力な、持ち物候補になります。



しかし、トウモロコシよりも有利な作物があります。それがサツマイモ。

サツマイモは何で増えるかというと、ツルで増えます。
芋からツルが生えてきて、そのツルを切って植えれば、増殖していきます。

サツマイモ「1個」を持っていけば、苗としての「ツル」が数十本は
手に入りますから、栽培効率の点は問題ありません。

そして、トウモロコシよりも有利なのは、栽培容易なこと。

肥料をやらなくても立派に育ちます。
また、地中に出来るものなので、台風などにも強いです。

トウモロコシの場合は、台風で全滅という心配もありますが、
サツマイモならば、災害にも強いので、言うことありません。

また、芋のみならず、葉や茎も食用になることも、魅力です。

品種としては「農林1号」か「コガネセンガン」あたりが
良いのではないでしょうか。

どちらも、現在はでんぷん質を取る目的で栽培されるものですが、
十分食用になりますし、生命力も強い品種です。

よって、僕の結論は。
「無人島に一つだけ持っていくとしたら、サツマイモ」

より正確な答え方をするのであれば
「芽の少し出かかった大きなコガネセンガン」でしょうか。
無人島に移住して、すぐにツルを植えることができます。

最初の収穫までの4〜5ヵ月は、
手当たり次第に狩猟採取して、何とか生き延びましょう。

一度収穫を迎えてしまえば、あとはこっちのもの。食料の心配はありません。





今度「無人島に一つだけ持っていくとしたら、何を持っていく?」
なんて聞かれたならば、「サツマイモ」と答えてみてください。

すると、
「この人は、こんな非現実的な質問にも、あらゆる生存可能性を考慮し、最も
 適切な回答をしてくれた。冷静で判断力のある人だ。そして、少しでも生存の
 可能性があるのなら決してあきらめないという、とても強靭な心を持った人だ」
と、思われるか

「この人は、サツマイモが好きなんだ」
と、思われるかの、どちらかです。



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でも、あなたが住んだ時点で無人島じゃなくなる、このパラドックス。
posted by 加藤のどか at 17:07| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月22日

高知の酒事情

他県の人々にとって、高知県のイメージといえば「酒」。

倒れるまで飲み続けるとか、通りがかりの人まで宴会に参加するとか、
高知県人が酒を「しょうしょう」飲みますといえば「少々」ではなく
「升升」で二升のことだとか、酒に関する県民性エピソードには事欠きません。

でも、実際のところは、どうなのでしょうか。

地域の集まりなどに参加し、高知の酒事情も大体分かってきたつもりです。
きょうは、高知県の酒事情について。





まず、有名なのが「返杯」という制度というか、風習です。

宴もたけなわになったころ、人々が席を立って、うろつき始めます。

このときの装備品は、片手にお銚子、片手にお猪口。

「どうもどうも」なんて言いながらターゲットに近づいてゆき、
お猪口を差し出します。

相手がお猪口を受け取ったら、適当に話をしつつ、お猪口に酒を注ぐのです。

受け取った相手は、酒を飲みほすと、そこらへんの器に、
お猪口の中身をこぼすような仕草をします。

これはどうも「私はちゃんと飲みましたよ」ということを示しているようです。

そして、お猪口を手でぬぐうような仕草をし(洗ったということを示すのか)
相手にお猪口を渡し、お銚子を受け取り、今度は注ぐ側に回るのです。

これを、会話と共に、延々と繰り返すわけです。

それが、高知県の返杯という制度。





ここまでは、有名では無いにしろ、知っている人もいると思います。
高知県の宴会といえば「注ぎ注がれの無限ループに陥る」ということは、
一部の人には有名なジジツ。

では、実際のところ、この「返杯」は、行われているのでしょうか。

イメージでいえば「公的な会」では行われず、
友達同士の集まりのような、くだけた場所で行われていそうです。



しかし。実際は、むしろ逆。



僕の(勝手な)イメージでは、公的な場ほど、
返杯による「注ぎ注がれ無限ループ」が行われています。

少人数(5人以下くらい)で、地元の居酒屋なんかで飲む場合には、
あまり「返杯」が行われるのを、目にしません。

むしろ、何かの会の集まりがあり、その打ち上げで、
50人くらいが集まったときなんかが、最高に返杯が繰り広げられます。

分かりやすくいえば「親友」同士では返杯はしないものの、
「知り合い」同士では、返杯をするという感じでしょうか。





この「返杯」という制度には、良い点もあります。

それは「返杯」を理由に、人の輪に入っていけること。

いくら飲み会の席とはいえ、知らない人にいきなり話しかけるのは、
なかなか勇気が要ることですよね。

でも「返杯」をするという大義名分があれば、
むしろ、行かないことが失礼に当たります。

高知の宴会では、返杯が始まると、自分の席を立って、うろつきだす人が
ほとんどになるので、「会に参加した全員と話す」くらいのテンションです。



困ったことといえば。

基本的に、知らない人に対して「挨拶」の意味をこめて「返杯」が
行われることもありますから、僕みたいに外部から来た者は、
四方八方から片手にお猪口・片手にお銚子を装備したオジサマたちが
群がってくることになります。

1人1人の注ぐ量は、お銚子一杯と小さなものでも、
それが何十人と重なると、ものすごい量になります。

何十人と来るということは、何十人と一気に知り合えるということでも
ありますから、その点は嬉しいことです。



ただ、オジサマたちは延々と飲み続けるため、
後日会っても、覚えていないことも度々なのですが。



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posted by 加藤のどか at 17:05| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月21日

なぜ田舎者はダサイのか

こと、ファッションに関して言えば。
「田舎者はダサく、都会者は洗練されている」

多くの場合、これは事実だと思われます。
でも、何で田舎者はダサくなってしまうのでしょうか。

情報格差があった時代ならばともかく、
現代は、都会であれ田舎であれ、同じテレビを見て、同じ雑誌を読んで、
インターネットだってどこでも見ることが出来ます。

なのに、やっぱり感性に差が出ていると思うんです。

4月の大学キャンパスを見ると、一目瞭然です。
田舎出身の人と、都会出身の人は、パッと見て分かる場合が多いと思います。

情報入手に差は無いというのに、
一体どこで、この差が出てくるのでしょうか。勝手に論じてみます。





まず、ファッションというのは「意味づけ」です。

警察官の制服を着ていれば「この人は警察官なんだな」
ピシッとしたスーツを着ていれば「この人はビジネスマンなんだな」
ブカブカの服を着て野球帽を斜めにかぶっていれば「黒人に憧れているんだな」

というように、服装には少なからず「意味」がついています。

ある服装をすることで「私はこういう者ですよ」と、
周囲にアピールするわけです。

流行の最先端を行く服装をしているのならば
「私は流行に敏感で、一歩先の感性を持っているのです」という意味があります。

その服装を見た相手は、「ああ、この人は、こういう人なんだな」と、
服を着ている人物に対して、ある程度の理解を示すわけです。



と、いうことは。



その人のことが「分かっている」場合には、意味づけ効果は薄れるんですよね。

例えば、ニートの人が家族の前で、ビシッとしたスーツに身を固めても、
服装の意味づけ効果はありません。

だって家族は、ニートであることを知っているんですから。

でも、ニートの人が15年ぶりに小学校の同窓会に出席する場合ならば、
ビシッとしたスーツに身を固めることは、意味があります。

同級生は、彼がニートであることを知りませんから、
スーツの「ビジネスマンである」という意味が、通用するんです。



そういう観点から田舎社会を見てみると。



ある程度のレベル以上の田舎になると(僕が住んでいるところくらい)、
みんな知っているんですよね、お互いを。

「鈴木さんの息子さんは、建設会社の課長さん」だとか
「佐藤さんの娘さんは、農協の職員さん」だとか、みんな知っているんです。
っていうか、生まれてから今まで、すべて知っているんです。

田舎の集落なんて、でっかい家族みたいなもんです。
(実際に、複雑に血縁関係が広がっているので、ほとんどが遠い親戚なんです)

すると、服装の意味づけなんて、やる意味が無いんですよね。

いくら真面目そうな格好をしたところで、
鈴木さんの息子さんが、普段はチャラチャラしたヤツだということは、
集落の誰もが知っているわけです。

逆に、いくらみすぼらしい格好をしていても、
佐藤さんのお父さんが裕福だということは、みんな知っているわけです。

田舎では、不特定多数を相手にするということが、
都会に比べると、非常に少ないんです。

これは、商売をしている人でも、同じです。

たとえば、バキュームカーの汲み取り屋さん。

都会には汲み取り屋さんはいませんが、
もしいたとしたら、制服を着ると思うんです。

「私は汲み取り屋さんです」という「意味」を、不特定多数の人に伝えるのに、
最も便利なツールが「制服」だからです。

だけど、田舎の汲み取り屋さんは、別に制服なんかありません。私服です。

だって、みんなが「山田さんは汲み取り屋さん」って、知っていますから。
制服を着ようが着まいが、関係ないんです。

店では、お客さんと店員さんの区別がつきません。それが田舎なんです。
(みんな、誰が店員かと知っているから、問題ないんです)





つまり。

田舎の人というのは、不特定多数の人に対して、
服装で自分を意味づけるということを、する機会が少ないんです。

だから「ダサい」という結果になるんです。

いくらファッション誌を読んでも、実践はしていないんです。
知識はあっても、実践をしていないと、何だか変な格好になります。

その結果、4月の大学キャンパスには、都会者から見ると、
何だか痛い格好をした人たちが出てきてしまうんです。

感性や知識に差があるのではなく、実践する機会の差であると思うんです。
野球のルールブックを読んでも、野球はうまくならないんですから。





なんてわけで、「田舎者はダサい」という結果に、
なるんじゃないかなと思うわけです。

当然ですが、全員が全員当てはまるというわけは、ありませんよ。

ど田舎出身だって、都会に出てすぐに、
洗練されたファッションをする人もいるでしょう。

僕のように、東京のど真ん中で生まれ育ったのに、
ファッションに1ミリの興味も持たない人間だっています。

ま。そんな僕としては「野球帽」と「ジャンパー」さえあれば、
どこをうろついても恥ずかしくないという現在の環境は、
とても気に入っていたりするのです。



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posted by 加藤のどか at 17:05| いろいろなこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月20日

都会暮らしの嫌なこと

昨日は「田舎暮らしの嫌なこと」ベスト3をお届けしましたので。
今日は「都会暮らしの嫌なこと」ベスト3の発表です。

東京に住んでいるときは「嫌」だとも思わず「普通」のことだったのですが。

田舎に移住して2年。
改めて東京を訪れると、こいつぁ嫌だと思うことが、いろいろと出てきます。

昔は何とも思っていなかったのに。不思議なことですが。





【第3位・・・緑が無い】

都会と田舎では「緑」の基準が違います。

朝、窓をあけたら、森の香りが飛び込んでくる。
周囲は360度、緑に囲まれている。
うっかりしたら、草で家が覆い尽くされる。

それが田舎の緑。

こんな感覚で都会の暮らしを振り返ってみると、
公園や並木道で「緑」に浸ったような感覚になっていたことが悲しくなります。

とはいえ、それでも無いよりは、ずっとマシなんですがね。

田舎では、木や草の吐いた空気を吸っていますが、
都会では、他人や自動車やクーラーが吐いた空気を吸っています。

一日一度は、緑が吐いた空気を、胸いっぱいに吸い込みたいものです。





【第2位・・・暑い】

暑いんですよ、東京は! というか、都会は!

僕が住んでいるのは山の中。真夏でもクーラー無しで過ごせます。
だけど、東京だと、クーラー無しで過ごすのは自殺行為ですよね。

ときどき、山の中でも35度くらいになるときもあります。
でも、都会の35度と田舎の35度って、感覚が全然違うんです。

口で説明するのは難しいんですが・・・

都会だと、空気が澱んで弱火で煮られているような暑さなんですが、
田舎だと、太陽が直火で炙ってくるような、気持ちの良い暑さというか。

両方を経験した人だったら、すぐに分かると思うんですが。

あれは何の違いなんでしょうね。湿度?酸素濃度?

不快指数というのは「温度」と「湿度」から計算するそうですが、
温度でも湿度でも無いファクターがある気がするのです。

気がするだけです。





【第1位・・・車で移動できない】

田舎の移動手段といえば「自動車」で決まりなのですが、
都会の移動手段は「電車」「自転車」「徒歩」が三本柱でしょう。

都会の移動手段は、とても不便です。

昔は、東京はあらゆるところに電車網が通っており、
交通機関が発達しているので、便利なんだと思っていました。

でも、今考えると逆。都会は、とても不便です。

僕の実家から、一番近くの食品スーパーまで徒歩5分くらいでした。
今は、家から食品スーパーまで、時速50キロ・ノンストップで5分です。

同じ5分でも、便利さでいったら、今のほうが、はるかに便利なんですよね。
重い荷物を持って歩かなければいけないことも、ありません。


あと、都会の人は、田舎の人のほうが「運動」していると
思っているかもしれませんが、事実は逆です。

田舎は、ほぼ100%自動車で移動できるので、
自分の足で歩く機会というのが、無いのです。

都会だと、通勤するにも、歩きまくりますよね。

田舎だと、家から会社まで車で行けるし、
買い物も大型スーパーまでスイスイ行けるので、歩かなくなるんです。

今の時代、都会の人のほうが、はるかに歩いているんですよ。
裏を返せば、それだけ交通手段が不便だってことにもなります。





【まとめ、のようなもの】

こうして改めて考えてみると、
やはり僕の性分は、田舎のほうに合っているようです。

田舎暮らしの嫌なことは、なかなか思いつきませんでしたが、
都会暮らしの嫌なことは、スラスラと出てきました。

第4位以下も、水がまずい・うるさい・どこに行っても人間がいる・
変な格好で外に出られない・家が狭い・カエルがいない、等々、
いろいろと挙げることができます。(カエルは本当にかわいい)

もちろん、都会暮らしのほうが性分に合っている人もいるでしょうが。



問題は、田舎から都会へ出るルートはたくさんあるものの、
都会から田舎へ移住するルートは、ほとんど無いってコトです。

また、これは偏見かもしれませんが、
都会好きの人のほうが、田舎好きな人よりも、
活発な、活動的な、行動力のある人が多いような気がします。

(田舎暮らしに憧れる人で、実際に田舎暮らしをする人は5%くらいで、
 都会暮らしに憧れる人で、実際に都会暮らしをする人は90%くらい、
 というのが、僕の勝手なイメージです)

田舎→都会ルートは、移住者自身も活動的だし、情報も多いし、
世間的にも「変なこと」じゃないし、前例も多いから安心です。

都会→田舎ルートは、移住(希望)者が活発じゃない場合が多いし、
情報は少ないし、世間的には「変なこと」だし、前例も少ないんです。


世間的には「変なこと」ですが、僕は変なこととは思いません。
むしろ都会→田舎ルートが整備されていないことが、
よっぽど変なことだと思うんです。

ま。このメルマガなんかは、ささやかな道作りの一つだったりするわけです。



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posted by 加藤のどか at 17:03| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月19日

田舎暮らしの嫌なこと

普段、このメルマガでは「田舎暮らしイイヨ!」的な話をしていますが、
「そうはいっても不便だろうし、やっぱ都会のほうがいいよ」
と思う読者さんも、多いことでしょう。

僕も「この点は都会のほうがよかったな」と思うことは、いろいろあります。

と、いうことで。

東京を離れ、田舎に移住して約2年。

きょうは「田舎暮らしのココが嫌だ!」ベスト3の紹介です。





【第3位・・・書店のレベルが低い】

「買い物に不便」という点は、
田舎暮らしのネガティブ面として、よく語られます。

しかし、普段の生活必需品を買うのに不便を感じることは、まずありません。

服なんかも、興味ある人からは「いつの流行だよ」というような
ラインナップなのでしょうが、僕は関心ないので問題ありません。

が。

困るのが、本。
田舎(高知)には、東京にあるような大型書店は、ありません。
あるのは、東京でいえば、普通の商店街にある「町の本屋さん」レベルなんです。

だから、欲しい本があればアマゾンを利用することになるんです。が。

やっぱり、実際に中身をパラパラと見ないことには「はずれ」が多いんです。
書店で買えば「はずれ」はありませんが、アマゾンだと50%くらいはずれます。

買ったはいいけれど「別に面白くねぇな」という本が増えていきます。

人によっては「服」や「食品」などで不便を感じることもあるでしょうが、
僕の場合は「本」でした。

ああ、渋谷のブックファーストが懐かしい・・・
と、思って検索したら渋谷店潰れたって??ああ悲しい・・・





【第2位・・・テレビのチャンネル数が少ない】

以前から、ことあるごとに(たぶんこれで5回目くらいか)愚痴って
いますが、テレビのチャンネル数が少ないんですよ。

現在の地上波ラインナップは、NHK・NHK教育・日テレという3本柱。



のみ。



東京にいたときは、あまりTVなんか見ませんでしたが。
「見れるけれど見ない」のと「見れない」のは、気持ちが違いますね。

CSを契約しているので、大体はそっちを見るのですが、
たまにはディスカバリーチャンネルよりもテレビ東京が恋しくなります。

見れば見たで、10分くらいで、くだらないと思って消すかもしれませんが、
見れないと見たくなるのが人情。

というか、二十数年、当たり前のように出来たことが出来なくなると、
寂しいものです。

3チャンネルしかないと、実質「3択」になるときはなく、
「この番組を見るか、消すか」の「2択」になるんですよ。

タモリさんも、ロンドンブーツも、ココリコも、2年間会っていません。

チャンネル数の少なさが、田舎の嫌なこと第2位です。
(地上波3チャンネルのみというのは、田舎でも相当めずらしいと思いますが)





【第1位・・・ムカデとゲジゲジ】

そして、栄えある第1位に輝いたのは!
「恐怖の多足類」こと、ムカデとゲジゲジの出現です。

幸い、ここ1年ほどは家の中で見たことはありませんが。
それでも、移住初期のころに出会った恐怖は、体に染み付いています。

もう、本能レベルで嫌。

都会の人で勘違いしている人がいるでしょうが(僕も勘違いしてたが)
2〜3センチの、一般的に「ゲジゲジ」って呼んでるやつ。


あれは『ヤスデ』です! 『ゲジゲジ』じゃありません!


僕は二十数年間、ヤスデをゲジゲジだと思っており、
「ゲジゲジが怖い」とか言う人に、何であんなものが怖いのかと。
「この人は、よっぽど虫が苦手な人なんだな」とか内心で思っていたのですが。

タイムマシーンがあるのならば、当時に帰って土下座して謝りたい気分です。



ゲジゲジ、ムッチャ怖い。



どう見ても地球外生命体。
ムカデと違って毒は無いそうですが、あれは姿が毒です。目の毒。
画像を見たい人は、「ゲジゲジ」で画像検索してください。自己責任で。



そして、ムカデ。



刺されると非常に痛いらしいですが、幸いまだ刺されたことはありません。

しかし、家の中に出たことは3回ほどあります。

聞いた話では「夜、布団の中に入ってきて刺された」
「手袋の中に潜んでいて刺された」「長靴の中に、よくいる」
なんていうこともあるらしいですから、もう恐怖恐怖恐怖恐怖恐怖。

ムカデとゲジゲジさえ家の中に出ないと保証されれば、
僕の中で「嫌なこと」の8割は解消されるというくらい、嫌です。

ハチやヘビやカエルやゴキブリなんて、どうでもいいです。むしろ可愛い。
ムカデとゲジゲジだけは、3回生まれ変わっても可愛いと思えません。
(いや、でも来世ムカデに生まれ変わったら雌ムカデを可愛いと思うかな?)

ま。ということで。栄えある第1位は「ムカデとゲジゲジ」になりました。
ちなみに、これは屋内のみでの話。畑で見るのは、そんなに気になりません。





【まとめ、のようなもの】

逆に言えば、嫌なことって、僕の場合はこのくらいです。
田舎の付き合いで困ったこともないし、生活に不便を感じることもありません。

「嫌なこと」を3つ挙げようと思って、
1位と2位は0.6秒で決まりましたが、3位には随分悩んだほど。

そんなものです。

そして予告。

明日は「都会暮らしの嫌なこと」ベスト3の発表です。お楽しみに!



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posted by 加藤のどか at 17:02| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月18日

竹の子の鮮度

僕が借りている田んぼ(&畑)のすぐ隣は、山です。

完全に植林といえるほどの植林でもなく、
昔ながらの雑木林といえるほどの雑木林でもなく、
手入れを放棄された、どこにでもある普通の「元・里山」です。


その山の一部が、竹林になっています。


竹林といっても、手入れされているわけではありません。
竹は鬱蒼と生い茂り、木漏れ日も降り注ぎません。
竹が雑草化してしまった、荒れた竹林です。


先日。そこに竹の子が生えているのを見つけました。
気をつけて見てみると、そこらじゅうからニョキニョキ生えています。
掘る人もいないのでしょう。既に「竹」になりかかっているものもありました。

食べてみようかな、とも思ったのですが・・・



普通、竹の子として売られている竹の子は、
きちんと手入れされた竹林のものを掘っているのです。

適度な密度になるように間伐し、
「傘を差して竹林を歩ける」くらいにしないと、良い竹の子は出来ないんです。

一方、僕が掘ろうとしている竹林は、
傘どころか「麦わら帽子をかぶって歩けない」くらいのレベルです。

雑草化したような竹の子は、商品として売っていません。
鬱蒼と生い茂ってしまえば、日当たりも悪く、竹の子に栄養も行き渡りません。
市販されているのよりも、貧相なものになってしまうんです。



ですが、僕が見つけた竹の子も、竹の子は竹の子です。



美味しくないかもしれないけど、食べられないことも無いだろう。
そう思って、2本ばかり掘って、家に持って帰りました。
(無許可ですが、ま、地主さんにとっても明らかに「雑草」だろうと思いつつ)

で。
帰って早速、茹でて、アク抜きして、食べてみたところ。





















ウマイ!!!(゜▽ ゜)


何コレ、超ウマインデスケド!!!(゜▽ ゜)
爽ヤカナ甘ミは、採りたてスイートコーンのゴトク!!!(゜▽ ゜)
立チ上ル香気は、春のイブキを薄手のコロモの様にマトイ!!!(゜▽ ゜)
筋張ッタ部分ナド微塵も無ク口中ニテほろりと溶ケテ行く食感!!!(゜▽ ゜)



いたずらに掘った竹の子。驚くくらい美味しかった。
2本あった竹の子も、1日で無くなってしまいました。



原因を考えたんですが、どう考えても、あの駄竹林(ダチクリン)に
生えていた竹の子が、市販されているタケノコより上質とは思えません。


唯一、考えられるのは「鮮度」。


それまでも、田舎で竹の子を食べたことはありましたが、
朝掘った竹の子を昼に茹でたやつだったり、
前日に掘ったやつを翌日茹でたやつだったりしたんです。

でも今回は(何の気なしに)帰り際に掘ったので、
掘ってから20分くらいで鍋に放り込んでいるんですよね。

竹の子は「時間」ではなく「分」単位で味が変わるともいいますが。


たしかに変わります。


それくらい、本当に掘りたての竹の子は、美味なるものでした。

いつか竹林にコンロと鍋を持ち込んで、
掘って3秒で茹でてやろうと思ってます。






【蛇足1】

そんなこと言われても、都会に住んでいたら、
掘りたての竹の子なんて食べられません。

スーパーに売っているのは、よほど良くても「朝掘り」。
竹の子は半分死んでしまっています。

都会で一番いいのは、信頼できるところの「真空パック」。

田舎から竹の子(茹でてないやつ)を送ってもらうのではなく、
現地で掘りたてのものを、すぐに茹でてもらって、
それを真空パックなり、冷蔵なりして送ってもらうのが、
都会で新鮮な竹の子を食べる方法です。

茹でられない限り、鮮度はどんどん落ちていくので、
茹でられたものを買うのが、美味しい竹の子を食べる方法です。



【蛇足2】

竹の子を掘るには、コツが必要です。
竹の子は、親竹(というのかどうか知らないが)と地下で繋がっています。
赤ちゃんのへその緒みたいなモノですね。

それを断ち切らないことには、竹の子は掘れません。

で、これがどこで繋がっているか、なんですが。

上から見て、竹の子がちょっと内側に曲がっている方向があるんです。
お辞儀をしている格好になっている、おへその方向ですね。

その地下に繋がっている部分があります。

ですから、まずはある程度、周囲を掘り進めた後に、
内側の「おへそ」の部分を、クワなりスコップなりで断ち切りましょう。

すると、驚くほど簡単に掘ることが出来ます。
この「おへそ」が見つからないと、いつまでも掘れませんので、ご注意を。



【蛇足3】

僕の場合は、山の地主さんと知り合いだし、
明らかに誰も掘らないことが分かっていたので、無許可で掘りましたが。

知り合いでないところの竹林は、一応誰かの持ち物なので、
いくら荒れ果てていても(たぶん怒られませんが)掘らないほうが無難です。



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posted by 加藤のどか at 17:01| 田舎暮らしのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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